〈幕間2〉囚われの青い鳥は魔王と約束を交わす
あれはよく晴れた、遅い午後の時刻だっただろうか。
ここのところ
「兄さん、今日はすごいぞ! いっぱい獲れたんだっ」
狩りを終えた妹が帰ってきて腹に突撃してきた。
いつだって妹の感情表現はストレートだ。
小さい頃から面倒を見ているからもう慣れている。物理的には結構痛いけど。
「そっか。良かったね、ミスティア」
「うんっ! ぼくが矢を放ったらすごいんだぞ。一回も外れたことないんだよ。百発百中なんだっ」
片鱗はすでに幼い時から表れていた。だから驚きはしなかった、けど……。
それにしても百発百中か。
これは予想以上だな。
「それはすごいな。ミスティア、おまえは幸運の精霊に愛されているんだよ」
「幸運のせいれい……?」
大きな深青の瞳が丸くなる。
ちょっと飛躍しすぎたかな。分かりやすく教えるのって難しい。
首を傾げる妹の頭を撫でながら、おれはにっこりと笑ってみせた。
「ミスティア、精霊達はおれたちのことが大好きなんだ。だから心を込めて祈れば、その願いは聞き届けられるんだよ」
おれたち
先週も隣の村が
おれたち兄妹がいつまでもずっと、平和に暮らしていける保証はどこにもない。
それなら。
妹が一人になっても、立ちはだかる危機に立ち向かえるように。おれがいなくても、しあわせな人生を歩んでいけるように。
そう願いを込めて教えたのだけど、まさかあの局面で実践するだなんて。
これだから人生というのは面白い。だからどんなことがあっても、生きることだけはやめられないのかもしれない。
◇ ◆ ◇
「眠ったのか?」
部屋を出たところで、陛下がまるで待ち伏せしていたかのように現れた。
いや、違うな。まるでではなく、本当に待ち伏せしていたのかもしれない。
「泣き疲れて眠ってしまいました。部屋を貸してくださり、ありがとうございます。陛下」
本来は礼なんて言わなくてもいいと思うけど、一応言っておく。
礼を欠くとこの人うるさいし。
「用は済んだのだろう。そこを退け、ローウェル」
「嫌です」
細い眉が中央に寄り、眉間に皺ができていく。
暗い紫色の目が据わり、陛下の身体からあふれた魔力がチクチクとおれの肌に刺さる。
まるで人ならざるもの。鬼のような形相だ。普通の人なら怖いと感じるのだろう。
おれだって
けれど。
なぜか、タルヴォス陛下に関しては一度も怖いと感じたことがない。
怒りをあらわにした顔を見ても、気持ちは同じだった。むしろちょっとかわいいかも。怒られるかな。
「陛下、お願いです。妹には手を出さないでください」
返事はない。予測通りの反応だ。
だけど、こちらだって簡単に引き下がるつもりはない。
「おれは貴方の指示通りに動きました。陛下の寝室で皇太子殿下達を待ち伏せし、ミスティアを捕らえ、魔法で応戦しました。逃がしはしましたが、ちゃんと功績を残してます。だからおれの願いを聞いてはくれませんか?」
「【
なるほど。言われてみれば、そんな命令を受けていたな。
「申し訳ありません。殿下や妹の友人達を傷付けたくありませんでした。おれの願いに精霊達が反応し、【
「まあ、いい。たしかに貴様は
意外だった。
陛下は他種族を卑下し、
なのに
貴重な好意を嬉しく思うと同時に、少しだけがっかりだ。言い負かそうと思っていろいろ準備していたのに。
——と、思っていたら、やにわに陛下は一枚の書類を突き付けてきた。
「読め」
ぐいぐいと書類を眼前に突き付けてくる陛下。
分かったから、読んで欲しいのは分かりましたから、もうちょっと距離を離してもらえませんかね? 字がぼやけて全然読めないんですけど。
手探りで書類をつかむと、陛下はあっさり手を離してくれた。
なんだ、受け取れということだったのか。
面倒臭い人だな。まあ、そういうところも嫌いではないのだけど。
陛下に睨まれながら、書類に目を落として黙読する。
それは一種の契約書のようだった。
もしかしてこの方は、おれが最初から交渉してくることを読んでいたんだろうか。
最後の一文字まで目を通した後、ぶるりと手が震えた。
「陛下、これは——」
「それが条件だ。他は一切聞き入れてやるつもりはない」
陛下の直筆のサイン入り。
その書類に書かれていることは、簡単に言うとこうだ。
陛下が妹に手を出さない代わり、もしも今後妹が自ら城を出るようなことになれば、この契約は無効になる。
つまり、おれがミスティアを逃がせば、次に陛下が妹を捕らえた時には口出しできなくなる。
おれの両親は、まだミスティアが物心がつかない頃に流行病で亡くなった。あの日以来、おれは何に置いても妹だけは守ることに心を注いできた。
ミスティアはおれにとっては唯一の肉親で、大切な家族だ。
危険な場所にいて欲しくない。できることなら、城から逃してあげたい。
だけど、今のおれにはそうすることさえも、できそうにない。
「……解りました。それでいいです。耳を傾けてくださり感謝いたします、陛下」
にこりと笑ってみせる。
怪訝な顔をしたものの、陛下はデレてくれなかった。眉間に皺を寄せたままおれの身体を押しのけ、妹が眠る部屋の前で
何をするつもりなのだろう。
音もなく、目の前に闇が降りてきた。
これは結界を張る魔法だ。なんだっけ、力の強い
たしか【
続けて、陛下は腰を下ろすとナイフのようなもので、床を削り始めた。
これは術式だ。
限りある文献にしか載せられていないと言われている、あの古代文字で構成されている。
初めて見た。もうちょっと近くで見たい。
「
「そんなこと言わないでください。緻密な文字で編まれた術式なんて、滅多に見る機会ないんです。田舎者ですから」
うきうきと言ってのけたら、なぜか鋭く睨まれた。
なぜだろう。本当のことなのに。
止めていた手を動かし、陛下は最後にひと削りするとナイフを懐に仕舞った。
短い詠唱のあと、闇色の結界が透明になる。
なるほど、このための術式だったのか。
「これで城内の
約束、ね。
おれとしては契約と言って欲しいところだけど、まあどっちでもいいか。
「ええ、もちろん」
「あの脳筋ドラゴンめ、
「陛下の寝室がだめになったのなら、おれはどこで眠ればいいのですか?」
「知るか。勝手にしろ」
一度も振り返らず、陛下は行ってしまった。
つれないのはいつものこと。陛下は顔を合わせてから、一度だって心から笑いかけてはくれない。
あの方の考えていることはいつだって、戦争とどのようにしてより強くなるのか。ただそれだけだ。
陛下は直で見て、ますます実感したんだろうな。
ミスティアはただ一度、精霊への祈りを捧げただけで、使えるはずのない魔法を発動させた。陛下の寝室はテレポートによる侵入を阻むために魔法不干渉の仕掛けが施されていたし、そもそもあの子は
しかもミスティアが引き寄せた幸運はそれだけではなく、あのデタラメな強さを持つ黒竜さえも呼び寄せた。ヴァイオレット卿が乱入してきたのは偶然じゃない。すべては精霊の導きだ。
きっと、陛下はどんなことがあろうと、おれのこともミスティアのことも手放しはしないだろう。
であれば、おれにできることは、妹が少しでも安全で過ごせるように努力を傾けることだけ。呪いに侵されているこの身でできることなど、たかが知れている。
陛下の手の内から逃がすことはできない。約束を
逃げてしまったあの
ミスティアにはしあわせになって欲しい。
その気持ちだけはほんものなのだけど、次に目が覚めた時に信じてくれなかったら、それならそれで仕方がない。
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