〈幕間1〉宮廷魔術師は魔王へ報告を入れる
まったく、今日は最悪の一日だった。
私の名はセレスタイト=エル=マグノリア。ここイージス帝国の宮廷魔術師達を束ねる長に就いている者だ。
普段は王城内の研究室にこもって
しかし、今日に限っては違っていた。城の外へ出、腕に覚えのある者たちを連れ、狩りへ行ってきたのだ。まったく面倒なことこの上ない。惰弱な
それもこれも、褒美に実験室をひとつ都合してやるという皇帝陛下の口車に乗ってしまったせいもあるのだから、仕方がない。
「はあ、憂鬱だ」
海のような深いため息を吐き出してから、私は城内のある一室の前で佇んでいた。
どうにも気が重い。
有限な時間を無駄にしたばかりか、今から陛下の心証を悪くしかねない報告をせねばならないのだ。
標的である
力を重視する皇帝陛下はどんな反応をするだろうか。叱責だけで済めば良いのだが……。
「セレスか。入れ」
まだノックをしていないというのに、中から声が返ってきた。
私の気配を察したということか。
頭が痛くなってきたぞ。
鉛のような腕を動かし、私は壮麗な装飾が施された両扉を開けた。
この世界には二つの強国がある。
西大陸の半分ほどの領土を牛耳るノーザン王国。そして東大陸の半分以上の領土を治めているのが、我がイージス帝国だ。
近年戦を重ね、領土を広げ続けた甲斐あって、イージスは強くなった。世界一の軍力を持つと呼ばれるほどまでに。
東大陸にはまだ小さな国が少しあるが、じきに飲み込まれるだろう。
なぜならば我らの皇帝陛下、タルヴォス=ヴァレリー=ダリア様は、飽くことなく強さのみを求めるお方だからだ。
部屋に入ると、陛下は天蓋付きのベッドから下りるところだったらしい。
私の位置からはよく見えないが、誰かが横たわっているようだ。青い翼が見える。
すぐに殺すのならともかく、他種族の者を部屋に連れ込んで放置するなど、珍しいこともあるものだ。
陛下はクセのない深緑色の長い髪を、今日に限っては背に流していた。髪紐でゆるく縛るのが常なのだが、今日はそういう気分だということなのだろう。
身体を起こし私の方へ振り向くと、陛下は肩にかかっていた髪を払い、形のいい唇を引き上げる。
「ようやく戻ったか。ミスティアはどうした?」
回りくどい話題など不要だということか。
非常に合理的でその点には不満はないが、失敗など予期していないような口ぶりが私の頭痛を重くする。
いや、むしろ失敗は許さないとでも暗に言っているのだろう。
「陛下、申し訳ありません。邪魔が入りました」
ここは素直に謝罪をしておくことにした。
嘘や言い訳でもしようものなら、さらに状況が悪化するだけだ。
意外にも、陛下は不快な反応をしなかった。もしかすると、私一人でこの私室に現れたことで察していたのかもしれない。
濃い紫色の両目をついと細め、私に問いかける。
「セレス、詳細を報告しろ」
「はっ」
頭を下げ、私は自分の目で見たものすべてを言葉にし、陛下に報告した。
イージスとシャラールの国境にあるフォーレイの森で、標的である
ついには追い詰め、捕獲しようとしたところで、
そして、陛下からあずかった城の兵士達がその男によって全滅させられたこと。
勝機が掴めないと悟り、おめおめと逃げ帰ったことまで、すべて。
「
陛下は私を責めなかった。ただ悪態をついただけだった。
「あれは普通の剣士ではありません。一振りで同胞達を屠ったのです。戦い慣れている、いえ、命の狩り方を熟知している戦士の動きでした」
剣筋には微塵の迷いもなかった。人を殺すことなどなんとも思わない、そういう生き方をしてきたような目をしていたのだ。
ただ強さを得るために、人の命を手にかけた私などとは格が違う。本当の意味での修羅場を経験した者が発する鋭い殺気。まるで触れるだけで心臓を貫かれそうな。
「どんな男だった?」
「この辺りでは珍しい褐色の肌の男です。黒い髪に、目は陛下と同じ紫色でした」
「ならば属性は闇かもしれんな。覚えておこう。……それでセレス、お前はこれからどうするつもりだ? ミスティアを連れて来れなければ、約束の褒美は当然与えられないのだが」
私を流し目で見ながら、陛下は煽るように笑った。
まるで目の前に餌をチラつかされているかのような気分だ。
かと言って、ずっと念願だった実験室を、たった一度の失敗で逃すのは惜しい。
「もう一度チャンスをください」
「よかろう。必ず生きたまま、
「承知致しました」
ミスティアという名前の翼族の娘、か……。
喰うつもりで私に狩りを命じているわけではないのだろうが、陛下は何を考えているのだろうか。
あれは、なんの変哲もない
そこの寝台で眠っている
疑問は尽きないが、堂々と陛下に聞くだけの度胸はなかった。
ここは退室し、すぐに仕事に取りかかった方がいいだろう。早く部下達に命じて、
深々と頭を下げ、私はきびすを返した。
扉の取っ手に触れる寸前、なぜか「待て」と制止の声がかけられる。
「あともう一点、言っておくことがある」
「何でしょうか?」
「お前は
「はあ、まあ一応は……」
陛下は私よりも遥かに技量の高い
当然、言い伝えられている種族王の伝承について知っているだろう。私はあまり関心はないのだが、陛下は
なに、さほど特別な話ではない。
——と、思っていたのだが、陛下はそうではなかったらしい。余裕をたたえていた切長の両目を
「ならば、何を悠長に構えている。セレス、心してよく聞け。
一歩、また一歩と、陛下はゆっくりとした足取りで歩き始めた。
何の感慨もなく、私はその動作を見守る。
陛下は壁にかけてある武器へ、ゆるりと手を伸ばす。
琥珀が埋め込まれた銀色の鞭。物理攻撃においても魔術を行使する時にも有用な、特別製の武器だ。
たしか制作に携わったのは私の娘だったか。
それを持ったまま、陛下は勢いよく腕を振り下ろした。同時に激しく強く叩きつける音が響く。
柄にもなく肩が震えた。まるで心臓をつかまれたかのような恐怖を覚える。
皇帝の私室には厚い絨毯が敷かれているというのに、身体が反応するほど大きな音を鳴らすことができるのは、どういうことなのか。
絨毯は見事に裂け、床が抉れていた。私の足先のすぐそばで、鞭の先端が食い込んだままだ。
陛下は眉ひとつ動かさない。
腕を上げ、陛下が伸びた鞭の先を引き戻すと、深緑の髪が一房肩から滑り落ちる。
彩度の高い紫色の瞳は、まるで甘くて苦い毒のようだ。
両目の中でゆらりと揺れる眼光が私を、心を、とらえて離さない。
「次にミスティアを見つけた時、その
「はっ! 承知いたしました」
動かない身体を無理やり動かし、深々と頭を下げた。今度こそ退出する。
部屋を出た途端、汗がどっとあふれた。
陛下と謁見する時はいつもこうだ。心臓に悪い。ただでさえ短くなった寿命が縮むような思いだ。
「影で〝魔王〟と呼ぶ者がいるのも頷けるな……」
魔族の中でも最強に近い実力を持つ男、か。くだらない噂話に過ぎないと思っていたが、あながち嘘ではないのかもしれない。
まだ頭が痺れているような気がする。陛下の毒牙に軽くかかっていたらしい。
まったく、自覚なく相手を絡め取ろうとしてくるから困る。
我々魔族は多く喰らえば喰らうほど、力を手に入れることができる。
陛下は実力主義者だ。手にかけた他種族の者は両手では足りないほどに多いと聞く。
同胞の私さえも魅了する強い力があるというのに、まだ力を求めているのだから敬服する。
「マグノリア卿、お戻りになっていましたか」
研究室へ入ると同時に、部下が早速声をかけてきた。
気を引き締め、目に力を込める。少し下がった眼鏡を指で押し上げた。視界がクリアになる。
「至急探査班を集めろ。仕事を始めるぞ」
我らが皇帝陛下のために。
さあ、狩りの続きを始めようじゃないか。
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