Chapter-3 エレウシス-II
「奴」が初めて現れたのは,
去年の今頃だったか。
蒸し暑さが張り付く夏だった。
俺の魂は冷ややかだったが。
漸くこの国の現実に気づき始め,
自暴自棄だった。
敵がデカ過ぎたんだ。
あの男の薄気味悪い声が蘇る。
(君は繊細で弱い人間種だが, 美しい魂を持っている。)
余計なお世話だ。魂の鑑定はさんざん
《夢想》でされたからな。
学院の陽光を浴び, 肥えた大樹から伸びた葉が微妙な木陰を産んだ。
閉じた瞼に, 葉の覆いを突破した光が
優しく刺さりやがる。
そんな昼だった。
いつものベンチに座っていたら,
「奴」が話してきたんだ。
俺は驚いたさ。多少はな。
新作の詩の予感も消え失せてしまった。
「奴」が全く別の階梯から来た存在なのは,
明らかだった。
種族も能力差も超えた, 《摂理》の冒涜者。
まあ, 天使か何かの戯れかとも思えたが。
《夢想》側の世界で散々イレギュラーの話も聞かされていたからな。
いざ実際に目にすれば...
また奇妙な日常になりそうだ。
何時からだろうか。
「奴」は俺に悪魔の戯言を預けていた。
俺が皇国の秩序に縛られた
無力な人間種だと, 理解しているからこそ。
気に食わねえ。
あの男も, 汚ねえ蠅の姿をした「奴」も。
俺はただの詩人だ。何処にでもいる無能だ。
何が楽しくて, 俺なんかに構うんだよ...。
やめだ。人外の思考が人間にわかるかよ。
帰ろう。いつも通りの清潔な部屋に。
"人外の次元を見たくは無いか?"
今日も現れた「奴」は早速,
いつもの交渉を始めた。
俺は気にせず, 標的にナイフを投げた。
--------------------
退屈な古典講義は終わり,
セモットは端末から課題を提出した後,
帰路につき, 夜の予定を勘案していた。
セモットの家は祖母譲り。
高級住宅街でありながら,
しかも郊外に近い場所に位置する。
分都の中でも有数の好条件だ。
一学生には不相応な程に。
パスコードを入力し,
厳重なセキュリティで護られた扉を抜ける。
セモットは邸宅に入る時,
常に後ろめたさを感じていた。
(俺ぁこんな物で護られるぐらい大した人間なのかよ)
自虐。凡愚に似合わぬ洗練された空間は優しく, 残酷であった。
静かな寝室の泥濘みに耐え切れず,
セモットはガレージに急ぐ。
無為に任せるばかりではない。
皇国の多様性から詩の着想を得るために,
セモットは周りで生じた現象を観察する事があった。
今日の収穫は, 学院外に蔓延る浮浪者達にも
一定の序列関係が存在していたという
珍妙な事実。
皇国の上流階級共の真似事なのだろうか。
僅かな関心はナイフ投げの鍛錬を前に
掻き消された。
蠅の姿をした「奴」は
今日もセモットの前に現れる。
頬にタトゥーをした青年は,
半裸でナイフを投げていた。
林檎, タマリンド汁の缶, 雑貨店にありそうな安物髑髏の複製。
林檎に突き刺さる。
水気を含んだ音がガレージに響いた。
"なぜそんな玩具を投げている"
"決まってるぜ。自衛だ。
いざ液族とやり合う時にな"
"お前は誰かに狙われる程に,
上等な人間種なるや?"
本質を突かれる。
たかが境遇に甘んじた学生だ。
無名の青年を誰が襲うのだろう。
何かを変えたいが, 方法も模索段階。
詩か, 革命か。
何の使命を与えられて
皇国で日々を送るのか。
貴族達や神官を敵としても,
対抗手段には何があるか。
全てが空回りしている感触があった。
無意味な戦い。
セモットが捌け口を暴力性に見出したのは,
自然の成り行きであった。
そして蠅は,
人間種の青年特有の苦痛を熟知していた。
"《神号盟約》せよ,セモット"
蠅は囁く。誘惑を前に, 鼓動が昂る。
"天族の機密。龍の翼。液族の形態祖型。
全てお前には程遠い超常の能力なり。お前は哀れな人間よ"
セモットは答えない。
腕にスナップを効かせた, 鋭いナイフの投擲。
スノッブの脳天に見舞えたら
どんなに気持ちいいか。
"我が能力でお前の詩に
強制行動効果を付与してやろう"
〈言霊禍〉。リテラシー・ドラッグ。
蝿はそう呼称していた。
時たま皇国に自爆攻撃を仕掛ける
反逆派の神兵にも使用されているらしい。
固定した缶が裂け,
隙間からタマリンド汁が噴き出した。
言葉の力は,凄まじい。
詩人を名乗る以上,セモットは熟知している。
叙事詩に宿る含蓄や,
聖賢の箴言はそれ自体が叡智である。
アルフィリオ...現在最もセモットが敬愛する歌い手の言葉は,
例えるならば野性の咆哮であった。
フレーズが蘇る。
「愛と幻想 擦り付ける馬鹿に育てられ お前も夢の仲間入り」
時には言葉がヒトの魂や,
文明の歯車を動かす事もある。
そして, 甘美な音色を持つ文字の麻薬は
神兵をも突き動かすのだ。
無能のセモットにとっては,
言葉こそ全てであった。だが。
"...メフィストフェレス紛いの能力商談は通用しないからな"
セモットは愛読の叙事詩より得た比喩で,
今日も能力の提供を拒絶する。
蠅は下品に嗤った。
"お前程の本嫌いが
Goetheはちゃっかり読んでいるとはな!"
"五月蝿えっ!!" セモットは怒鳴る。
手元が狂い, 台に当たったナイフは
床を滑稽に滑った。
興味自体はあった。
皇国内部で頻繁に生じる液族同士の決闘。
その際用いられた《形態祖型》の凄まじさ。
あれは肉体の名を冠した兵器だった。
連中に対抗するには,
確かに〈言霊禍〉の能力が必要だ。
だが, 盟約の主は蠅。
由来も不明の異形であった。
"お前の企み次第だ。
栄光と破滅のワンセットか?"
"疑り深いな。
実戦を踏まえれば洞察力も増そうぞ"
蠅は複製の上に飛び移り,
頭頂で脚を擦り合わせていた。
"また皇国評議会が行われた。
《種族位階》を更に強化するらしい"
"そうか。どうでもいい話だな。
液族共には一大事だろうが..."
蠅はセモットを引き入れる餌を
得意げに提示する。
"お前は1年前生じた
北東での惨劇を知っておろう?
実はあれも我が遠因によって
引き起こされたる..."
"知らねえな。
遠くで人外が何をしていようが, 結局は..."
"ふん。我を相手に無頼を通すか"
蠅は興醒めしたのか, 停止して動かない。
返答代わりにナイフを再び的に投げる。
命中。
左眼窩を貫通した
髑髏のレプリカは床に転げ落ちた。
蠅を乗せたまま。
セモットは乱れたガレージを整えた後,
上着を羽織った。
"俺は人間だ。
皇国じゃ稀少存在と化している,人間だ。"
"皇国の外では群雄の覇権争い。内のお前は, 部屋で詩作か。ふん"
"...不満らしいな。俺に捕食姫みてえな
怪物共の戦場を練り歩けと?"
"傭兵にでも鞍替えするか?
皇国の支配も緩むだろう"
セモットは傭兵の文字を聞いて,
記憶を想起する。
(詩作と戦を並列させたがるのは甘いよな。
皇国を抜け出し, 群雄や未開の地に挑む
戦闘中毒者を何回も見たが,
あんな奴等の同類としては
認識されたくはないぜ。
弱々しい詩人として
世界に唾吐く方がマシさ。
ただ, 怠惰な生よりも
死の実存が恋しかっただけだ。
夜に生きる者, 戦線に生きる者の眼は...
何故か, 美しかったんだ。
そんな俺の様子に苛立ったのか,
祖母ヘリオディラにも良く言われた物だ。
"夜の闇が好きならヤクザにでもなっちまいな!"と。
...嚢友団の恐ろしさを知ってるのかよ,
婆ちゃん...)
蠅が小刻みに痙攣を始めた。
翅が落ち, 脚が落ちる。
ザムザムと奇怪な音が響き,
来訪者は色褪せた。
"崩壊が始まった。
やはり, 地上界への干渉は制限されるか"
汚物を見る様なセモットの
軽蔑に満ちた視線を楽しむがごとく,
蠅は崩れる肉体を震わせて
蟲の箴言を与えた。
"最後に忠告しよう。
《夢想》に入り浸るは控えよ, セモット。
言葉の力が強過ぎるヒトは,
容易に魂を狙われるゆえに"
そして, 蠅は動かなくなった。
"チッ, また汚ねえ残骸だけ置きやがって..."
学院生活よりも
《夢想》の快楽を優先するセモットにとって,
他者からその功罪を指摘されるのは
不愉快であった。
--------------------
蠅が話しやがるとは,
この世界も沙汰の限りだよな。
俺はセモット。セモット・ヴェイルだ。
無能、無頼、無鉄砲こそ上等よ。
文句があるならかかって来やがれ。
俺は皇国分都「朱雀」に住まう者だ。
テレーム学院正門を出て
直ぐのベンチにもいるぜ。もはや名物よ。
誰でもいい。
液族・蛮族・天使でも何でも歓迎だ。
《夢想》の秘儀を教え合おうじゃないか。
今日の詩が出来たぜ。
《ある言語学者の唄》
全てに言葉が在りき
死の空間 雅の空間
苦痛の空間 快楽の空間
全てに在りき
虚飾も修辞も重なれど
息吹たる言葉は止まらない
友と敵で 使いし格調を分けれども
一なる摂理に 遍く詞藻は回帰せり
箱庭のセモット 〜皇国詩人譚〜 フミンテウス @humitee666
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。箱庭のセモット 〜皇国詩人譚〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます