なくしたものはそれでいい。

増田朋美

なくしたものはそれでいい。

なくしたものはそれでいい。

ある日、ブッチャーが商品である着物の発送をするために、郵便局へ行って、自宅へ帰ってきた時の事。ただいまと言って、玄関のドアを開けた。玄関先も廊下も、いつもと変わらない。でも、居間の方から、ガサガサゴソゴソと人が歩いている音が聞こえてくる。ブッチャーが、音のする居間へ行ってみると、姉の有希が、何か探しているようなしぐさをしている。

「姉ちゃん、どうしたんだよ。何かなくしたのか?」

と、ブッチャーは有希に聞いてみた。

「ええ、本当に大変なの。和裁の本が何処かに行ってしまったの。」

和裁の本?姉がそんな本を買ったのだろうか。和裁なんて、有希はならったことはないし、そんな物に興味をもって、本を買ったようなそぶりも、ブッチャーは見たことはなかった。

「姉ちゃん。どうしたんだよ。和裁の本なんて、いつ買った?」

ブッチャーが急いでそういうと、

「ええ、半年くらい前かしら、通販で入手したのよ。」

と、有希は言った。その顔が、何か嫌なことが起りそうな顔をしているので、ブッチャーは一寸身構えてしまった。

「姉ちゃん、その本のタイトルって何だよ。」

ブッチャーが聞くと、

「ええ。気軽に着られる着物を作ろう、だったかしら。」

それは覚えていてくれたようだ。

「それが和裁の本なのか?姉ちゃん、着物を一から十まで作って見ようと思ったの?」

ブッチャーは、スマートフォンを出して、その本のタイトルを、検索してみた。確かに、本は出版されていた。有希のような症状がある人は、タイトルも正確に覚えていない人が多いが、この本は確かに、実在する本らしい。ブッチャーが本の口コミサイトで調べてみると、なんでも着物を簡単に着られるように、おはしょりを縫って紐をつけてしまおうという内容の本なのだ。着物の着方なんて、ブッチャーに取っては、非常に簡単な作業なのだが、女の人には難しいところもあるのだろう。どうしても、本や、着付け教室に頼りがちになる。

「何だ、着付けを簡単にしようという本じゃないか。そんな本に頼らなくても、着物の着付けは簡単だよ。そんな完璧に着付けようとしなくなっていいんだ。帯は作り帯で十分だし、おはしょりを

作るのだって、そんなに大変な作業ではないから。」

と、ブッチャーは、そういって姉に気持ちを切り替えて貰いたいと思って、彼女にできるだけ軽い出来事であると言いたげに言った。でも、姉はそういう気持ちにはなってくれなかったようだ。

「そんな事いって、着付けを私はできないんだから、ちゃんとしなくちゃダメじゃないの。私は着付ができないって、みんなに言われていることだし。其れができないから、工夫をしようと思っているんじゃないの。」

有希は、自分では着付けは下手だと思っているようであるが、ブッチャーから見て悪いことはなかった。直したいとおもったことはほとんどない。ただ、有希は、町でよく会う着物代官と呼ばれる女性の評価をとても気にしている。だから、衣紋貫ができてないとか、おはしょりは5センチは出さないとだめだとか、そういうことをよく口にする。ブッチャーは、リサイクル着物によくある、1000円程度の着物で十分だと思うのだが、有希は完璧に着付けができていないとだめだと思うらしく、プレタ着物の大判サイズとか、そういう物ばかり買っている。そのような着物は大体ポリエステルでできている事が多いのだが、それを又着物代官に指摘されたらどうしようということも、口にすることがある。でも、着物で外出することは好きらしく、こういう矛盾がありながらも、ポリエステルの着物を着て、しょっちゅう外出しているのであるが。

「まあそうだけど、着物なんて、完璧に着こなさなくたっていいんだよ。おはしょりが出てないからダメとかそういう法律は何処にもないの。だから、工夫なんてしなくても普通の着方をすればいいのさ。俺だって、姉ちゃんの着物姿を笑うことはしないし、ほかの人だって、そういうことをいうことは無いと思うよ。」

ブッチャーがそういうと、

「そういうことじゃないわ。だって、あの本はすくなくとも、1500円はしたのよ。そのおかねは、私が払ったんじゃないわ。人から貰ったお金でかった本をなくすなんて私、どうかしてる。ほんとに私はだめよね。働いていないのに、人から貰った物をなくすんだから。それでは、いけないじゃないの。だから私、やっぱり罰が、」

と、有希はそういう話を始めた。これはまずい!と思ったブッチャーは、

「姉ちゃん、幾ら罰が必要だといっても、体を傷つけることはやめてくれよ!それは、やってはいけないことだぞ!」

と急いで言った。

「そんなことないわ。私は働いてない。だから、うちの家族とも聰とも、一段格が低い人間なの。だから、普通のことができない私は、悪いことをしたんだから、罰が必要なの!」

「それはやっちゃだめだ!」

ブッチャーは、急いで実の姉の体を抑えつけた。姉はいよいよパニック状態になり、どいてとか邪魔しないでとか、恐ろしい声で叫び始めた。こうなったら、近所の人の事とか、そういうことは考える暇もなかった。ブッチャーは、大学時代習っていた柔道の技である、背負い投げを使って姉を投げ飛ばした。自分が趣味的にならっていた柔道が、こんな形で役にたつとは思わなかった。さらに、具体的な名称があるわけじゃないけれど、相手の肝をつくというか、急に力が抜けるようにさせる技術を心得ていたから、ブッチャーがそれをして、有希は力が抜けて、床の上に崩れ落ちた。

「姉ちゃんごめんな。俺、もうちょっと、姉ちゃんの事を分かる技術を身につけなければだね。」

と、ブッチャーは床に座って泣きはらす姉に向ってそういうことを言った。

姉が、働いていないことで、自分が一段格が低いと思う必要は全くないのだった。ブッチャーも、そういう気持ちになったとしても姉には言わない気持ちでいた。働いていない人間は出ていけという家族もいるようであるが、ブッチャーはそうなったら姉がかわいそうなので、それは言わないでいた。だけど、有希は、勝手に格が低いとか、働いていない人間は最低だとか、そういう風に思っていない

といけないと思っているようなのだ。それをしているから、自分は犯罪に走っていない、という自慢をしたこともあった。確かに、犯罪者というものはいるが、犯罪とは結び付けてもらいたくないとブッチャーは思っていた。其れよりも、車いすに乗っているのと同じような気持ちで生きてほしいなと思うのだが、姉は、どうしても自分を一段格が低い人間と思ってしまうようなのだ。

「あたしは、普通の人間じゃないの。一番犯罪に走るのは無職。私もそうなんだから、一段格が低いと思い込むことで、私は、犯罪に行かなかった。だから、私が今しようとしたことは間違いじゃない。」

と小さな声でつぶやく有希は、人間というより、壊れたテープレコーダーのような声であった。

「其れ、誰が言ったんだ。」

答えは知っているけど、ブッチャーはいちおう聞いてみる。

「高校で脅されたのよ。」

と、有希は答えた。全く、高校というところは、精神がおかしくなってしまうほど、変な先生が多いということだろうか。姉がどんな高校生活だったのかは、よく知らないが、姉の話を聞く限り、勉強をしない生徒と、勉強をさせようとやくざの親分みたいな声でまくしたてる先生がいたところだったらしい。まあ、今時の高校にはよくある事であるが、中学校の生徒がまじめすぎたせいか、其れとも有希が驚きすぎたのか分からないが、そういうところに彼女は順応することができなかったのだ。それで、考えや感じ方が、おかしくなってしまったらしい。

「姉ちゃん、あした、製鉄所に行ってくるといいよ。製鉄所のメンバーさんたちとしゃべってきて、自分の事を、もう少し優しくできるようになってくれ。」

ブッチャーは其れしか言えなかった。家族というものは、患者に手立てすることはできないと、影浦先から聞いたことがあった。そういう時は、有希の妄想から現実に力づくでもどそうとしても意味はないので、それができる人がいると提案するようにしてくれと影浦先生は言っていた。だから、ブッチャーもその通りにする。

「姉ちゃん、今の話し、製鉄所の人たちに話したら、きっと分かってくれると思うよ。俺なんかに話すより、ずっといいだろ。な、明日製鉄所に行ってさ、今日の話をしてみるといいさ。」

姉が行ける場所があってよかったとおもった。同時に、昨日あったことを話せる場もあってよかったと思った。

「姉ちゃん、雨でも晴れでも製鉄所は、逃げていかないからな。」

ブッチャーはそういった。家族だから、彼女の話しを、聞いてやった方がいいのではないか、とか言われることもあるのかもしれないが、本当にそれはひどい誤解なのだ。家族には、精神障害のある人を、是正させることは、まずできない。それは外部の人に頼んだ方がずっと、早く立ち直れるのである。だから、その外部の人がいるんだと、気が付かせてやるようにさせるのが、家族の役目ということになる。

「分かったわ。明日、あたし行ってくる。水穂さんの事も心配だしね。」

よかった、外へ出てくれる気持ちになってくれた。もしかしたら自信がないので、もう外へは出られないとか、無職だから外へ出てはいけないとか、そういう言葉を口にする可能性だってないわけではない。そして一度そうなるとさらに厄介なことになる。幸い有希はそうならないでくれたので、ブッチャーはほっとした。

翌日。有希は、タクシーに乗って製鉄所へ向った。製鉄所が、自宅から数十分でいけるところに在っから、さほど、遠いという感じではなかった。そういうところも大事なところである。もし、山奥にあったら、又社会と隔絶されてしまうと嘆く可能性もあるので。

「おはようございます。」

と、有希が急いで製鉄所の建物に入ると、

「今日は五郎さんが手伝いに来てくれるそうです。なんでも布団を新しく買いなおしたそうで。」

と、利用者のひとりが有希に言った。そういえば、あの有森五郎さんは、本業は布団をつくる職人である。有希は日本の伝統的な布団は、一寸サイズが小さすぎるような気がしてしまうのであった。とりあえず有希は、水穂さんのいる四畳半に行ってみる。水穂さんは、布団で寝ていたが、敷き布団にはタオルケットが敷かれていた。

「先日、何を食べたのか分からないんですけどね、又せき込んで、大変なことになったんだそうです。だから、布団を買い替えた方が良いって、理事長さんがそう決めちゃったんです。」

別の利用者が、有希にそう説明した。なるほど、そういうことか。

「水穂さん、おはようございます。」

と、由紀子は、水穂さんの枕元に座った。水穂さんは目を覚まして、体を有希の方へ向けてくれた。

「今日は新しい布団がくるんだそうですね。新しい布団で寝ることができて、嬉しいですね。」

「そうですね。」

と、水穂さんは言った。

「あら、あんまり嬉しそうじゃないわね。」

有希がそういうと、

「ええ。だって、こんな人間のためにわざわざ布団を作って貰ったんですから。」

と、水穂さんは言った。

「まあ、そんなこと言って。水穂さんは私も、ほかのメンバーさんにとっても、大事な人ですよ。だからこそ新しい布団を買ってもらうんでしょ。」

有希は、水穂さんに言ったが、

「そんなことありませんよ。僕みたいな人は、何処かで斃死するのが一番なんです。だって、ほかの人もそうでしたから。伝法の坂本から来た人は、ビルの窓ふきをして転落したとしても、機械に巻き込まれて腕が取れたとしても、放置されたままだったんですから。」

と、水穂さんは答えるのであった。

「其れ、いつの話よ。」

有希は、苛立たずにそう聞いてみる。

「ええ、僕が、幼い頃でしたから、もう、30年近く前でしょうか。今は、あの地区はゴルフ場になっていて、僕たちが暮らしていたとは、何も知られていないことですが。」

「そうなのね。もう、30年も昔。確かに、そういう地区があったかもしれないですけど、今はもうゴルフ場に成ってて、それで通っているんでしょう。そんな黒歴史にいつまでもしがみついていては、前へは進めないわ。そんな事、もうどうでもいいじゃない。関西にもそういう地区はあるようだけど、今は平和的に暮らしている人が多いって聞くわよ。」

有希は水穂さんを励ました。

「そうですが、今でも記憶は消し去ることはできません。すごい昔の事かもしれないけど、今でも身分がばれてしまったら、どうなるか。それはいけないという人もいますけど、日本の歴史はそうなって成り立ってますからね。」

「まあ、それはそうだけど、もうそんな事で問題になる時代は終わったんだと、思ってくれることは、できないのかな。」

そういう水穂さんに有希は、一寸ため息をついた。其れと同時に、

「こ、こ、こんにち、は。」

と、手間のかかる挨拶が聞こえて来た。もちろん声の主は五郎さんだとすぐにわかった。有希がどうぞお入りくださいと言うと、五郎さんは、四畳半にやってきた。

「具合、よ、く、なり、ま、したか?」

そういう五郎さんのしゃべり方は、ほかの利用者の話によると、何か苛立ってしまうという人もいるようだが、有希は特に偏見は持たなかった。

「ふ、と、んを、敷きます、ので、水穂さん、を、支えて、て、やっ、て、くれますか?」

と、五郎さんが言ったため、有希は分かりましたと言い、水穂さんを背中に背負った。水穂さんは、有希でも持ち上げられるくらい軽い重さだった。有希は水穂さん、又何も食べてないのねと言おうと思ったが、それはやめておいた。

「じゃあ、敷きま、すよ。」

と、五郎さんは、古い布団をとりあえず畳んで、新しい布団を敷いた。布団は、菊の花柄で、何だか高尚すぎる柄のように思われた。

「又、ふ、わふあの、布団、に仕立て、てきました。やわらかい、ほ、うが、いいかな、と、お、もい、綿を、多め、に、しました。」

五郎さんは、布団に晒し木綿のシーツを敷いて、

「さて、ふ、とん、が、できました。もう、ね、て、く、ださって、結構、で、すよ。」

といったので、有希は水穂さんを布団の上に寝かせた。

「こんな高尚な柄の布団で寝てもしょうがない。」

と、水穂さんは言っているが、

「何を言ってるの。五郎さんが作ってくれるんだから、ちゃんとありがとうして頂戴よ、水穂さん。」

と、有希は言った。

「そんな事言ったら、作ってくれた五郎さんに申しわけが立たないわ。」

「いえ、やっぱり、身分に応じて、使うものも違うわけですから。」

そういう水穂さんに、

「でも、さっきも言った、悪い生活だったのは、もう30年近く前じゃないの。今は、もうそういうことは終わった事なのよ。其れより、五郎さんに感謝しなきゃ。」

と、有希はにこやかに言った。

「水穂さんは、まだこっちの世界にいることが本当に必要なのよ。」

「そうでしょうか。」

そういう有希に、水穂さんは疑問視するようなしゃべり方で言ったのであるが、

「い、え。おれ、い、なんか、き、に、し、ないで、ください。僕、は、水、穂さんが、好きだから、

ただ、いて、欲しいから、布団を、つ、くったんです。」

と、五郎さんは言った。そういう切れ目が変なところにある、個性的なしゃべりかたの方がかえって用件は伝えられるものだった。それに、五郎さんのしゃべり方は、有希のように様々な語彙を使うわけでもないから、余計に飾ることもないのだ。

「ほら、そういってるじゃないの。そんな事言うなら、私はどうなるの。私だって、昨日は、本をなくして、リストカットしようとか、そういうことを考えていたのよ。そんなこと言うのなら、私の方がいない方が良いに決まってるわ。水穂さんより、私の方がもっと悪いんじゃないかしら?」

有希は、昨日あった事を思いだしながら言った。

「私は、水穂さんみたいに、誰かの話しを聞いてあげることなんてできやしないわ。あたしの方がよほど、この世から必要とされてないわよ。」

「いや、ゆ、き、さんは、やさ、し、いとこ、ろ、も、ある、じゃないですか。それは、す、ごいことだ、と、おもうし、必要と、され、て、ないなんて、お、もわないで、くだ、さいよ。」

いきなり五郎さんがそういったため、有希は、びっくりしてしまう。

「まあ嫌ね。五郎さんは。なんで私が、優しいと思ったの。私は、働けないし、感情のコントロールすらできやしないのよ。其れなのになんで、私の事ほめるの?」

「ゆ、き、さん、は、水穂さ、んに、ご飯の事を、口、に、しなかった。だからです。」

と、五郎さんは答えるのであった。

「誰でも、み、ずほ、さん、に、ご飯を、た、べろ、た、べろというんですけど、有希さ、んは、それを、し、なかった。それ、が、や、さしい、と思う。だって、みんな、食べろと、い、うけれど、水穂さんは、それが、できな、い。できな、い、事を、やれと、言われ、る、ほど、つ、らい、ことは、ない、で、すから。」

「そうかしらね。」

有希は、小さい声でそう言った。

「有希さん、何かあったんですか?」

と、水穂さんがいうので、有希は、ええと言って、昨日あった事を話してしまう。誰も有希の事をだめだといったり、弟さんに謝れという言葉はなかった。

「仕方ないじゃないですか。有希さんは、そういう対応しかできなかったんですから。其れよりもそういうことが二度と起こらないように、工夫できるといいですね。」

水穂さんがそういうと、有希はそうねと小さい声で言った。

「いいじゃ、な、いですか、そんな、千円とか、そんな、金額、大し、た、事、あ、りま、せんよ。其れより、誰か、に、迷惑、かけないように、する、事だと、お、思います。なくした、も、のは、

要らないもの。本当に、ひ、つような、ら、買いなおす、ように、何か、用意、し、て、くれますよ。人生って、のは、そう、い、う、ものだと、お、思いますね。」

五郎さんが、一言一言、かみしめるように言った。もしここにブッチャーがいたら、泣いて喜ぶだろう。そういうことをいえるのは、やっぱり、家族以外の人の方が、頭に入るのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なくしたものはそれでいい。 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る