第2話

 額から流れ落ちる汗がフランツの視界を滲ませ、目に刺すような痛みを感じさせた。


「フランツ! 遅れてるぞ! 腕を上げろ!」

「っ、は、はい……っ」


 横から浴びせられた罵声にひと言答えるだけでも、肺が破れるのではないかというほど痛んだ。ユーゲントの行進の訓練中のこと、列を乱すか弱い女の子メートヒェンは、指導者や年長の班長にもう目をつけられている。

 国民と国家のために、青少年の肉体、精神および道徳を鍛えあげるのがユーゲントの目的だ。家庭だけでも学校だけでも、放逸な若者を躾けるには足りないのだ。ことに、フランツのように惰弱な存在は。

 遅れがちになりながら、隣の少年に舌打ちや嘲笑を浴びせられながら。懸命に手足を動かす。声を合わせて歌ったり、一糸乱れぬ行進の訓練をしたり。奉仕活動も

ハイキングヴァンデルンクも、何ひとつ楽しいことはない。ここも彼の居場所ハイムではない。けれど家にいるよりはよほどマシだった。少なくとも、ユーゲントに放り込まれた当初よりは。身体を動かすことに集中していれば、他人に乗っ取られたような自宅のことを考えないで済むのだから。




 休憩時間になると、フランツは地面にへたり込んだ。二度と立ち上がれなくなりそうな予感はあっても、彼の脚はもう自らの体重を支えられない。膝の間に頭を休ませて荒い呼吸を整えていると、頭上から軽やかな笑い声が降って来る。


「いつもにもましてへばってるな、お姫様プリンツェシン。ちゃんと食べてるか?」


 フランツは、首がぎしぎしと軋む音を聞きながら辛うじて顔を上げた。すると、声の主が悪戯っぽい笑顔で彼を見下ろしている。三つ年上とはいえ、同じ訓練を潜り抜けたばかりとは思えない涼しげな様子をしているのはディートリヒ──彼の班の班長だった。


「……はい。すみません」


 昨日の夕食を抜いたのが祟っているのだろうな、とは思いつつ、その理由──不審なのことなど言えるはずもない。だからフランツは従順に目を伏せて謝った。ディートリヒは、彼が見るには眩しすぎる。

 金色の髪、緑の目が完璧な配置で並ぶ彫刻めいた顔貌。日焼けした健康的な肌に、鍛えられたしなやかな手足。ユーゲントを卒業したら、そのまま親衛隊SSに入るのだとも囁かれる、理想的なアーリア人の若者だった。そのディートリヒの目に、彼自身が映っているのを見てしまうのは耐え難い。髪と目の色だけは辛うじて同じでも、お姫様だなんて揶揄される少女めいた姿をディートリヒに見せているなんて、自覚したいものではなかった。


 だから、放っておいて欲しかったのに──ディートリヒは、フランツの傍らに膝をつくと彼の顔を覗き込む。顎を捕らえられて強引に目を合わせさせられると、ただでさえ酷使された心臓が危うく破裂しそうになる。


「顔色が悪いな」


 まばゆすぎる宝石の目から逃れたくても、疲れ切ったフランツよりもディートリヒのほんの指先だけの力のほうが強かった。彼の強がりも見透かされているのだろう、声変わりを済ませた声が耳元で笑うと、その低い響きがフランツの肌を撫でた。


「大丈夫です。本当に。大丈夫だから──」


 彼は、ディートリヒと並んでいて良い存在ではないのだ。太陽と──星を名乗るのさえおこがましい、地上をあまねく照らす光に炙られて燃え尽きる塵がフランツだから。彼の目は、きっと何もかもを照らし出して見通してしまう。非力で無能な彼のすべてを。それを知られてしまったら、ディートリヒだってほかの少年たちと同じように彼を嘲るだろう。

 一秒でも早く解放して欲しくて、惨めな思いが耐え難く苦くて。顔を背けようとしたフランツの口に、何かが触れた。


「これでも口に入れとけ。こっそりとな。糖分は活力になる」


 最初に感じたのは、目眩がするような強い甘さだった。それと、少しの埃っぽさと塩っぽさ。


「頑張れよ。見ててやるから」


 ディートリヒが、チョコレートショコラーデの欠片をフランツの口に押し込んでくれたのだ。軽く肩を叩いてから立ち上がったディートリヒの、軽く細めた目は共犯者の笑みを湛えていた。優しいけれど鋭いその眼差しに命じられるまま、フランツは粘りつく甘い欠片を咀嚼した。


 フランツの唇に、ディートリヒの硬い指が触れたのだ。そして、舌に感じた塩気は、彼の汗だ。その気付きが、貴重な砂糖の甘味よりもはるかに強く、フランツの脳を痺れさせた。

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