目覚めれば、ソドム
水原麻以
目覚めればソドム
朝目覚めるとそこは真っ白な世界だった。粘着テープのようにねばついた瞼を苦心さんたんして開けると、視界が光であふれた。
あまりの眩しさに目をあけていられない。ぎゅっと顔をしかめると涙がこぼれ落ちた。横たわった身体をくの字に曲げて咳き込む。
すると、耳元で誰かがささやいた。
「すまんのう。今、光を作っておる」
しわがれた男の声がすぐそばから聞こえる。だが俺はそれどころじゃない。ツンとした刺激が鼻の粘膜を突き抜ける。大量のワサビを詰め込まれたようだ。
「オゾン臭じゃ。急いで大気をこしらえた。お前さんが死んでしまうからのう」
老人が丁寧に説明してくれる。そんなことはどうでもいい。俺はのたうち回りながら心の中で叫んだ。
「もう少しの辛抱じゃ。じきに最小構成モードが立ち上がる」
何なんだ、その立ち上がるって。まるでパソコンでも起動するような言い草じゃないか。さっきから聞いている内容を総合すると、正体不明の声は俺の生存環境を一生懸命に準備しているらしい。
俺が窒息しないのはジジイのおかげだということだ。それにしてもここは一体どこだろう。昨日の夜は終電で帰宅してベッドに倒れこんだ。ここ数日の深夜残業で睡眠負債が蓄積している。俺は泥のように眠った。
「その通り、お前さんはぐったりして部屋に戻ってきた。そこでワシはついうっかりミスをしてしもうたのじゃ」
世界が闇を取り戻し、光の洪水が収まるとあたりの様子は一変した。さわやかな緑に囲まれた広場の真ん中に俺は倒れている。どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。ゆったりとした風が頬に心地よい。
「ここはどこで、あんたは誰なんだ?」
俺はガバっと身を起こして周囲に視線をめぐらせる。円形の空き地を取り囲むように家一軒ほどもある巨岩が並んでいる。
「ここじゃ。ここ」
三角錐をした明らかに自然物ではない岩が俺の正面に鎮座している。
「ここじゃわかんねえよ。あんた、隠れてないで出て来いよ。それから場所の質問に答えてもらってない。ここは、どこなんだ」
苛立ちを押さえきれず、俺は矢継ぎ早に質問を繰り出した。だいたい、声の正体なんかどうでもいい。現在地さえわかれば、帰る道順を考えられる。もっとも、ここが21世紀の日本であればの話だ。
「一つずつ丁寧に説明しようかのう」
「丁寧のバーゲンセールかよ。どうせ国会答弁みたいにのらりくらりかわすんだろう」
「では、一気にまくしたてるぞ。ついてこれる覚悟はあるか?」
岩は打って変わった様子で俺に厳しい要求を突きつけた。何なんだこいつは。俺は一体どうなっちまったんだ。
あまりの急展開、かつ斜め上のぶっ飛んだいきさつに俺の想像力はすっかり置いてけぼりにされた。
声の主は神。文字通り神格だ。ただ、日本には八百万の神々に満ちあふれていて、日本書紀に掲載しきれないほど神様がいる。彼は中の上くらいのカーストに位置するらしい。
そして昨日の夜、俺の寝入りばなに彼は降臨した。とは言っても、神々しい光や仰々しい効果音は全くしなかった。彼の階級では派手な演出や儀式めいた奇跡は高嶺の花だという。
彼の任務は俺の睡眠をサポートすることだった。睡眠の一切合切をつかさどる夢魔、そういった役どころだ。彼はいつものように俺の入眠を見届けていた。個人個人に専属の神様がついているなんて聞いたことがない。
彼によるとエリア制を採用しているのだという。そのエリアマネージャーがついうっかり俺の自宅周辺に結界を張りそこねた。魔族の侵入を防ぐためだ。
そいつらは人間の魂が無防備になる瞬間を虎視眈々狙っていて、特に入眠中は肉体と魂が分離しやすい。招かざる客の中には異世界からの来訪者も含まれる。
そう、いわゆる異世界召還だ。エリアマネージャーの凡ミスで俺と神様は異世界転移に巻き込まれそうになった。
「そこでイチかバチかの賭けに出た。ありったけの神通力を振り絞って天地創造を試みた。宇宙規模のリセットじゃなくて、半径三メートルていどのローカル天地創造」
俺は三角錐に向って「バッカじゃねえの」と言い放った。
異世界転移を天地創造で妨害したら何が起こるか誰も予想できない。こっちの混乱があちらの世界に影響を及ぼすかもしれない。
「その通りじゃ。おかげさまでワシは塩の柱になってしもうた。じゃが、お前さんを救うための手段が無かったのじゃ」
神様もとい塩の柱はすまなさそうに言った。とにかく、こうやって俺は異世界転移に巻き込まれずにすんだ。今はローカル天地創造された世界に避難しているというわけだ。
「どうにかこうにか俺は転生せずにこうやって生きている。あんたのお陰だよ。でっ?」
ぶっちゃけた話、俺はこんな世界なんかどうでも良かった。さっさとプチ新天地を開放して俺を家に帰らせて欲しい。できれば今すぐにでも暖かい布団にもぐりたい。
「あとはお前さんのやり方次第じゃ。ワシはもう力尽きてしもうた。何も手助けしてやれん」
「ちょ、おい!」
俺は塩の柱に詰め寄った。すると岩はグラグラと震え始めた。
「危ないぞ。ワシはもうすぐ倒壊する。今のうちに腹をくくるのじゃ」
彼はそう言ったきり、崩壊に全精力を集中しはじめた。三角錐の頂点が打ち震えて、バキバキと目に見える亀裂が入る。
「おいっ! 援助が無理ならせめて助言をくれ。帰宅サバイバルを生きのびる知恵を」
「己を信じて、正しき道を進むのじゃ」
塩の柱は俺の頼みを塩対応で返しした。
「正しき道って、正義か? 国や組織や個人の数ほどあるぞ。何の正義だよ?!」
俺がしつこく問いただすと、柱はうめくように答えた。「塩……王道……」
それっきり、息絶えた。冴えない神様の冴えないやりかたを遺して。
「何だよ? 王道、塩って?」
あまりに抽象的かつ大ざっぱなヒントに俺はくらくら眩暈がする。
仕方なく、俺は広場の隅に座り込んで、掲示の意味を考えた。短いフレーズのどこかに脱出の手がかり潜んでいる。
そして、ついに俺は結論にたどり着いた。それは深遠な哲学や高度な技術論ではなく、足元に転がっていた。
「王道、王道展開。ラノベだ! そして、塩」
俺は興奮気味に塩の柱を蹴り崩した。さらさらと岩塩が裾野を広げていく。
ライトノベルに「商売物」というジャンルがある。異世界で21世紀日本の物資や技術を行商して歩く。それらは飛ぶように売れ、ゴール地点には大富豪の身分が待ち受けている。
「塩だよ、塩。生活必需品だ。高値で売りさばいてやる」
俺はさっそく塩をかき集めた。そして人口比に応じた販売計画を立てようとした。
そして、俺は怖ろしい現実に気が付いた。
顧客である。客がいなければ商売は成り立たない。そして、塩の柱は上司にあやかってとんでもない凡ミスをしでかした。
「おいっ! 肝心の人類誕生がまだじゃねえか。おいっ」
俺は崩れ果てた塩の柱だったものに鬱憤をぶつけた。
目覚めれば、ソドム 水原麻以 @maimizuhara
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