02-2 冬の朝
苦々しい気持ちでいると、かち、と皿が置かれる音がした。
朝食を並べ終え、椅子を引いたリディアが正面に座る。手の仕草だけでめしあがれ、と促され、おれは視線を上げる。
淡い緑の瞳が、穏やかにおれを見つめていた。口の端がやわらかく持ち上がり、笑み混じりの静かな声。
「仕事関係の紹介だから、火葬依頼人の身元は確かよ」
「いいのか。職場って、財務省じゃ──」
「違うわよ。うちの先生に、そっちと繋がりがあるだけ」
それを財務省というんじゃないのか。
思ったが、リディアはくすりと苦笑を浮かべるだけだった。
世間知らずね、と言いたげな笑み。だが、すぐに彼女は表情を変えた。物憂げな声で言う。
「……どこにだって〝そういう人〟はいるわ」
嘆きとも軽蔑ともつかぬ言葉。おれは否定も肯定もせず、ただ話題をそらした。
「きみが議員秘書だなんて。今でも信じられない」
「生きるためよ。家庭的でいさせてくれなかったのはあなたでしょ」
「……」
墓穴を掘ったようだ。苦い顔をごまかすためにフォークを取る。
リディアがくすくす笑って頬杖をついた。
「別れた旦那にここまで世話を焼いてるの、私くらいよ。ふふ、ありがたいでしょ」
「……きみには感謝してる」
「ほんと、ひとりで買い物できるのはいつになるのかしらね」
「執行猶予はとっくに明けてる。禁止なんてされていない」
「あなたじゃなくて。周りが忘れるのに、時間が必要なの」
そんなことはわかっている。だが、反論しないでおいた。
沈黙が降りる。朝の光が差し込む中、ガラサの合成音声はまだ響いている。
声色がさらに高くなった。
『何度でも言おう。この国の愛は乾いている。今こそ真の愛が必要だ。
一人一人が、心に愛の炎を燃やすべき時なのだ』
「……私、ガラサ苦手だな」
頬杖をついたままの横顔が、ぽつりとつぶやいた。そうだろうな、と思う。
ガラサの言葉はシンプルだ。愛は心だ、というのがスローガンらしい。
どんな善いことをしても、福祉点数がいくら高くても、その行いに心が伴わなければなんの意味もない。それが彼の主張だった。
清廉であれ、善良であれ、常に心に愛の炎を燃やし続けろ。
人は社会の中で清らかに人を愛すべきであり、そしてその愛は、心によって成されるべきなのだ。
繰り返される、青い炎のように苛烈な言葉。理想的で美しい論理。
誰もが『本当にこれでいいのか』と思いながら見過ごしてきたことを、彼はどこまでもまっすぐに追求する。とてつもない理想主義者なのだ。
心こそが愛だと謳う主張は革命家というより宗教家のようだが、苛烈な論調や若者の中にどんどん信奉者を広げていく手口は、もっと過激な言い方をしてしまえば煽動家に近い。それでも彼の語り口には抗いがたい魅力があり、心酔する者が多いのも頷けた。
とはいえ、彼を礼賛するのはあくまでも若者たちが中心だ。
ガラサの論調は苛烈すぎるし、語る言葉は理想的すぎる。
ある程度年を重ねれば、ガラサの語り口は青臭いおとぎ話にしか見えない。
また、自他共に厳しい理想を追求し、どうしようもない現実と戦うことを強要するその主張は、疲れきった大人には激しすぎる。
だが、リディアが反対するのはそういう理由ではなかった。
「──愛はね、行動よ」
リディアがきっぱりと言う。彼女はまだ画面を見つめていた。その淡い緑色がすっ、とこちらを見る。真摯な表情。
「嫌いでもいいの。私、うんと親切にするわ」
おれは黙ってコーヒーを飲んだ。ふわり、と湯気が鼻先をくすぐる。
少ししかめた緑の瞳、その表面に青いアイコンが映り込んでいる。
まばたきがそれをかき消して、リディアは細い息をついた。
生きている以上、好き嫌いがあるのは仕方ない。
だがそれを超越して、誰もに分け隔てなく優しくする。
それこそが彼女の唱える愛なのだと、昔からよく聞かされてきた。
「……きみは立派だよ」
「あなたは立派だったわ」
迷いのない即答。おれは黙り込む。
コーヒーカップを置き、食事を再開する。両面焼きの卵はうまい。
カトラリーの音。小鳥の声。冬の朝の環境音。
清潔な主張を繰り返すガラサの声。おれを見つめる昔の妻。リディアの前に皿はなかった。
彼女はかたくなにここでは飲食しない。なにかのけじめのようだと思う。
わずかに重量を増した空気を振り払うように、リディアがふっと笑った。
「そういえば。またスコアが伸びたのよ。見て」
勝手に自分のデバイスを視界に同期してこようとしてくる。
仕方なく手首を叩いて認証を開いた。
ブレイン・トレーニングのアプリには、なかなかの数字が並んでいる。
いいスコアだ。
「忙しいだろうに、よくそんな時間があるな」
「脳は交換できないのよ。あなたも鍛えたら?」
「さすがブレイン・トレーニーの言うことは違うな」
「もう、茶化さないでよ。あなたの方がずっと記憶力いいんだから。私のスコアなんてすぐに抜いちゃうわ。やってみたら」
同じの入れてあげる、とリディアが手首を取ってくる。
おい、と言う前に視界の隅に待機アイコンが出現した。
「はい虹彩ちょうだい。あと静脈ね」
実にあっさりとアプリケーションがインストールされた。手早い。
「おい……」
「ふふ。これで長生きしてね」
小言を落とそうと思ったのに、リディアは小首をかしげて小さく笑った。
つい目をそらしてしまう。それはかつて何度も見た、好きだった仕草だった。
だがその瞳の色はもう、十年前とは違っているのだろう。
顔を見られないおれを知ってか知らずか、儚さと無邪気さはそのままに、リディアが苦笑する気配があった。
わざとらしいとわかりつつ、黙ってニュースに目をやる。ガラサはまだ愛について語っていた。
「愛は心、か。最近は言わなくなったようだけど」
「そういえばそうね。良かったわ」
あからさまなごまかしに、それでもリディアは乗ってくれた。
ず、とコーヒーをすする。卵の黄身がコーヒーの苦味と入り混じり、喉をゆっくり落ちていく。十年前から変わらない味だった。
「オーバーネットに取り上げられはじめたからかな。論調も整然としてきた」
「革命家も大人になったのかしら」
ほほえみながらおれを見つめる、淡い緑の穏やかな瞳。
その奥にあるものは彼女の信じる〝行動の愛〟なのだろうか。それとも。
そこまで至って、おれは考えることをやめた。
ディスプレイからはガラサの放つ、青い炎のように苛烈な言葉。
暴力的な理想論。清潔に愛を説く声。
──愛。幸福。慈悲と共感。奉仕の精神。美しい献身の心。
(……おれは立派だった、か)
そうだったかもしれない。
愛も夢も情熱も、今よりは持ちあわせていた気がする。
だが。
今は見る影もなかった。
おれは違法化寸前の火葬場を守るだけの、ただのしがないはみだし者だ。
ガラサが訴える。清廉で苛烈な炎の言葉。
『私たちは一人ではない。
相互に影響を及ぼし合って、繋がりあって生きている。
私たちの身体は、私たちだけのものではないのだ。
それは死を迎えても変わらない。
奉仕の愛は、相互扶助の精神は、
死してなお消えることはない、消えてはならない。
火葬とは愛の連鎖を断ち切る行為だ。「わたし」をこの世界から消してしまう行為だ。
それを自由としてしまえば、いずれ冷酷の自由も、我欲の自由も、強奪の自由も、そして戦争の自由も成り立つことになる』
正面に座る昔の妻。緑色の静かな瞳、画面をぼんやり見つめる横顔。
いつまでもおれの世話を焼くリディアがなにを考えているのか、淡い表情からは読み取れなかった。
(……もう、十年になるのか)
『大義をなす必要はない。
ただ目の前の奉仕を尊び、些細な不義を見逃さず、誠実に生きることこそが──愛への道を示すだろう』
すっ、と緑色がおれを見る。
儚げな目をやんわりと細めて、いつもより少しだけ他人行儀にリディアは言った。
「それで。受けてくれる? 依頼」
「……ああ」
目を伏せる。十年前から変わらないコーヒーの香りが鼻先をくすぐる。白い陽光がテーブルを長く照らしている。
清々しくも冷たい冬の朝に、青い炎をともしたガラサの苛烈な合成音声が、不釣り合いなほどはっきりと響いていた。
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