02-1 冬の朝

 朝の淡い陽光が、うっすらと差し込んでいる。おれはぼんやりと肘をついて、壁に投影されたニュースを見るともなしに眺めていた。


 繰り返された会見映像。もはや台詞まで覚えてしまった。がりがりと寝癖のついた頭をかきむしり、ひときわ大きくあくびをする。


 画面では、いつものように環資相が弱腰すぎる転身劇を問い詰められていた。うっすらと目が細くなる。半目のまま画面を見つめた。


 しきりに額を拭う仕草。いつも下がっている目尻、反対に少し上向きの口角。穏やかで優しそうといえば聞こえがいいが、要するに押しに弱そうな風貌。高級だが嫌らしくはないスーツを身にまとい、グレーの髪を後ろになでつけている。


 あの髪もむかしは黒かった。おれはそれを見たことがある。忌まわしい記憶だ。


 かつておれの前に現れた悪魔。人の皮をかぶった化け物。あの男の口からは、愛の言葉が吐かれていた。思い出したくもない。


 知らず噛み締めていた奥歯をゆるめ、わざとあくびをもう一つ。ふう、と息をつくと、おれはぎしりと椅子に身をもたせかけた。


 医療目的以外の生体パーツ交換を禁止するのは現実的ではない、というくだりに、本当に当たり前のことしか言わない男だな、と心中でつぶやく。


 以前は、おれも半年に一度は肌の張替えをしていた。瞳だって何度も変えたことがある。骨格と筋肉の総交換も一度ではない。確かにおれは交換が多い方だったが、他の人間だって流行り廃りに乗って、あちこちしょっちゅういじっている。禁止なんて無理だろう。


 とはいえ、もう十年は身体に手を入れていない。必要がなくなったからだ。これからもそうだろう。昔の生活に戻れるとは思わない。戻りたいとも。


 画面中のケイジ・ニューマンが四度目の額を拭う動作をしたとき、じゅう、とひときわ大きな音がした。


 ちら、とキッチンを見やる。長い金髪をひとつに結わえて、エプロンの後ろ姿が手際よく調理を続けていた。おれはそっと視線を逸らそうとしたが、遅かった。さらりとした髪を揺らして、リディアが振り返る。目があった瞬間、彼女ははあ、とため息をついた。


「ひげ。剃らないの?」


「今日はオフだ」


「髪も寝癖だらけじゃない。それに着替えは?」


「今日は、オフだ」


 重ねて言えば、はあーっ、とため息が深くなる。だらしないんだから、と小言めいた言葉。


「仕事の時はちゃんとしている」


「そうね、オンのあなたは完璧よ。……ほんと、死人と火葬にしか興味がないのね」


 呆れきった声を聞き流していると、リディアがぽんと卵をひっくり返すのが見えた。おれの卵は両面焼き。リディアはずっとそれを覚えている。


 今どき料理など手でやらずともいいのだが、趣味だと言い張って聞かない。まめまめしいことだ。そんな彼女から、おれはようやく視線を逸らした。


「ねえ。依頼ってまだ受けてる? 火葬の」


 ぴく、と眉が持ち上がった。ふたたび視線が戻る。


「依頼? きみが?」


「そうそっけなくしないでちょうだい。いろいろあるのよ」


「いろいろ、とはなんだ」


「色々は色々よ。……なんてね、実は私にもよくわからないの」


 人づてに頼まれただけで、詳しくは知らないわ。彼女は言うと、旧式のコーヒーメーカーに豆をざらざら流し込んだ。小さな駆動音。朝食のにおいに混じって、香ばしい香りが立ち始める。


 コーヒーメーカーに手を乗せて、リディアの後ろ姿がかすかにうつむいた。


「でも……わかるでしょ」


 ぽつり、とした声。黙ってうなずく。火葬場に来るような人間は、だいたいが事情持ちだ。〝いろいろ〟あるのは当たり前だった。

 おれのうなずきを、振り返りもせず察したのだろう。そういうことよ、と彼女は言った。


「ずいぶんあちこち探し回ってるみたい」


「なら、エンバーミングは」


「されてるわね、きっと」


 ふむ、と顎に手をやる。排煙の設定を考えていると、ぱっ、と視界の隅で画面が光った。どうやらようやく記者会見から切り替わったらしい。


 視線をやると青が見えた。一般ネットワーク──アンダーネットから拾ったらしい動画が映っている。


 清廉と苛烈を象徴する青い炎のアイコンと、中性的な青年の合成音声。

 ガラサだ。


 合成音声が語る。


『──今、この国の愛は乾いている。愛による相互扶助。聞こえはいいが、そこに実態は伴っているのか? 今や愛の目的は、利他主義による幸福の獲得でしかない』


 思わず眉根が寄った。口元が歪む。嫌になるほど清々しい、聞くたびに憂鬱になる声だ。


 青年の声は有名な合成音声ソフトのものだが、最近ではあの声イコールガラサだと認知されるようになっていた。滔々と音声が続ける。


『誰も彼もが公的優遇を目当てに福祉点数を高めることに終始して、社会人向けの倫理塾はいまや一大ビジネスだ。そこに愛は存在するのか?』


 清廉な声色とは裏腹に、青白い炎のように苛烈な言葉。おれはかすかに息をつく。彼のおかげでここ一年半ほど、オーバーもアンダーもずっとこんな調子だった。



 ──ガラサ。

 アンダーネットの寵児。若者の代弁者。彗星のように現れた、青い炎の革命家。



 ガラサというのはアカウント名で、歴史上の革命家の名をそのまま名乗っている。


 本人も〝革命家〟を自称しており、なんとも『かぶれた』──もっと言ってしまえば『痛々しい』若者だ。だが、迷惑なことにその影響力は絶大だった。


『今こそ、真の愛を取り戻すべきだ。道具としての愛ではない。我々の道行きを照らす、本当の愛を──』


 目が細くなる。真の愛。うさんくさい言葉だった。こんな時代では特にそうだ。愛なんてただの、社会運用に必要とされた概念にすぎない。




 現代は、愛の時代と言われている。


 おおかたの人間は、利他行動によって幸福を感じるようにできている。

 誰かのために尽くすといい気分になれるのだ。その幸福は尽くされた人の数倍にもなるという。この習性が、今の社会の根底を作っている。


 つらいとき、苦しいときこそ、愛をもって奉仕すべし。心理療法といえばカウンセリングにボランティア活動。お決まりの回復力レジリエンス育成コースだ。


 そうでない時だって、この社会は愛と福祉と相互扶助に満ちている。

 尽くせば尽くすほどお互いが、尽くす人も尽くされる人も、みんなが幸せになれる。助け合い、思いやりあい、愛し合うことで社会全体の幸福度が引き上げられる。そういうことだそうだ。


 美しき相互扶助、奉仕の愛といえば聞こえはいい。

 だが愛の導入によって、利他主義と利己主義の境界は失われてしまった。


 愛と奉仕はまったくのゼロコストで双方に幸福を生み出せる、金の卵を産む鶏のようなものだ。要するに役に立つ道具なのだ。


 今となっては尽くす行為が誰のためかなんて、誰にも判別できない。

 その行動に愛が伴っているかどうかは、もはや福祉点数が決めるばかりとなっている。

 形骸化した愛を復活させたい、ガラサのような若者が出てくるのも頷ける話だった。


 そのガラサは、合成音声をひときわ高くして語っている。


『真の愛への第一歩として、我々はついに、火葬の違法化を約束させることに成功した。愛のない、身勝手で自己中心的な埋葬を、世の中から消すことに成功したのだ』


 おれはとうとう画面から目を背けた。なんとも白々しい言葉だった。


 愛のための火葬違法化。そんなもの、愛の才能に恵まれた者が語る、身勝手な暴論だ。愛の名のもとに多くの人を見捨ててきたことに、彼らは気付きもしていない。



 

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