―― 第1章 ――

01 フィーニク火葬場

 清潔な住宅街の片隅に、フィーニク火葬場はある。


 ただの小さなビルだ。だがよく見ればカムフラージュされた煙突がある。暗い下り階段。半地下の入り口に小さく表札。


 半ば隠された入り口を通り、狭いエレベーターに乗って、火葬依頼人たちはフィーニク火葬場へとやってくる。


 この日も同じだった。エレベーターホールへと続く扉、その脇の傘立てに、しめった傘が二本並んでいる。夜更けから続いた雨は、さっきようやく雪へと変わったばかりだった。


 おれは傘立てにそっと手を伸ばした。手首につけたデバイスがかすかに震え、傘立てが除湿を開始する。空調は快適だ。じきに乾くだろう。


 傘の主である中年夫婦が、待合のソファに並んで座っていた。憔悴しきった様子で、うつろな瞳が壁のスクリーンを見つめている。朝のニュースの時間だった。


 喪服の裾をハンカチでぬぐっていた男が、ふと湯気の立つトレイを持ったおれに目を留めた。たちまち渋い顔になる。

 知らぬふりを通して近づくと、妻の方も気付いたようだ。ぼんやりした目で見上げてきた。


「どうぞ」


 歩み寄り、熱いコーヒーを差し出す。スモークで目隠しされた窓の外は、冷え切った真冬の早朝だ。普通ならありがたいはずのそれを、彼らは軽く一瞥しただけだった。おれはかすかに息をつく。


 黙ってテーブルにコーヒーを並べた。こちらを見向きもせず、夫が吐き捨てる。


「なんだって、こんな男のところなんか」

「しょうがないじゃない……火葬船がつかまらなかったんだから」


 妻は魂が抜けてしまったような表情だ。声にまったく覇気がない。顔色は血の気が失せて青白く、指先がかすかに震えていた。まだ現実を受け入れられない、という様子だ。


 おれはできる限り丁寧でやわらかい表情を作ると、夫婦に向かって語りかけた。


「ただいま、書類の確認と手続きが終了いたしました。火葬前に、故人さまに最後のお別れを──」

「結構です」


 言い終わるより先に、ぽつりと妻が言った。小さな声だったが、やけにはっきり響いた。夫が黙り込む。妻はまだ呆然とスクリーンを見つめている。ニュース音声がいつまでも、淡々と続いていた。


 おれはちらりと画面を見る。オーバーネット専用のスクリーンには、環境資源大臣のケイジ・ニューマンが映っていた。どうせまた一昨日の記者会見だろう。


 オーバーネット、つまりは旧・テレビラジオ放送局系列としてのプライドがあるらしい。報道は一応、それなりの体裁──中立かつ公平、世論に寄り添う形──を取り繕ってはいる。

 しかし会見の切り取り方を見る限り、実際はあまりお行儀の良い番組ではないようだ。


 環資相は記者に囲まれていた。フラッシュがまたたく中、肩をちぢこまらせ、しきりに額をハンカチで拭いている。容赦ない質問が浴びせられる。




『最終的に、来年にはすべての遺体の資源提供を義務化する形で法改正する、ということでよろしいですか?』


『えー、回収不能や汚染などの、ごく少数の例外を除いて、すべてとなります』


『やはり世論に押されての火葬違法化ですか? 葬送の自由は保障されるべきだという発言は撤回されるのですか』


『えー……発言の撤回は、いたしません。

 ですが、有機資源不足は現在、深刻化の一途を辿っております。

 一方で、生体パーツ交換は現代文化に深く根付いており、資源節約のための規制は現実的では──』


『葬送の自由というご自身の主張より、生体交換の市場価値を優先されると?』


『そう表現されますと、違うと申し上げるほか、ありません』

『ですが──』


 この大荒れの会見映像を見るのは何度目だろうか。おれはかすかに目を細める。


 どのチャンネルでも繰り広げられる、過剰に偏った報道による袋叩き。だが、この扱いこそあの男にふさわしいと思うのだから、おれも大概だ。


 パッと画面が切り替わり、スタジオに戻った。コメンテーターたちが次々と、前のめりに語りだす。


『やっと法改正ですよ。今、もう全世界で有機資源が足りていないじゃないですか。

 死に関する自由は保障されてしかるべきというけれど、自由ってのはなにをやってもいいってわけじゃないですからね』


『そうですね。現代の社会の根幹を作ってるのは愛でしょう。いちばんの基本はそこなんですよ。それはやっぱり、自由よりも守られるべきだと思いますね』


『そもそも有機資源の恩恵をもっとも受けてるのは私たちの身体でしょう? 遺体を還元するつもりがないのに恩恵だけ受け取る。これは世代もあるんでしょうが、昔はともかく、今の時代の価値観には……』



「──仕返しのつもりなのよ」

 ぽつっ、とした声が落ちた。見れば、妻の頬にひとすじ、透明な涙が伝っている。凍りついた表情のまま、彼女はかすれた声で続けた。


「父を愛してきたつもりだったのに」

 どうして火葬なんか。続く声はいびつに震えていた。


 夫が黙って妻の肩を抱く。ようやく彼女は表情を歪め、小さくうめいた。真っ白い手が顔を覆い、静かな嗚咽がこぼれだす。


 おれは黙って、寄り添う夫婦を見つめていた。何度も見た光景。泣き崩れる遺族、お別れの拒否、おれを見てすがめられる軽蔑の目。本当に、うんざりするほどよくあることだ。


 この父娘のあいだになにがあったのか知らない。どこの家庭にも事情はある。火葬場こんなところに来るくらいならなおさらだ。立ち入るつもりはなかった。


 疲れ切った夫婦へ、深々と頭を下げる。おれは火葬炉のある部屋へと踵を返した。最後にちらりと振り返る。夫婦はまだ、互いを憐れむように寄り添い合っていた。


 デバイスをつけた方の手を火葬室の扉に押し当てる。ポン、と軽い電子音がしてロックが外れた。火葬責任者の名が表示される。

 シヅキ・J・ロウ。他の名は、もう何年も表示されたことはない。そしてきっと、この名が最後になるのだろう。


 おれを継ぐ者はいない。火葬炉の炎は、来年には消えてしまう。それでも。



(火葬だけが──おれに残された、たったひとつの生きる意味だ)



 たとえあと一年で違法化されるとしても。最後のその日まで、おれは遺体を焼き続けるだろう。それだけがおれの責務であり、祈りであり、願いだった。


 火葬場の外では、冬が静かに雪を降らせていた。排煙が大気の雪を溶かしていく。その煙がすべて消えるころ、夫婦は黙って去っていった。傘は乾いていた。



 

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