第二十九話:その苦しみを見送るために
「ふうー、終わった終わった」
事件に関する情報整理が終わり、組んだ両手を高く上げる。外を見ると、カーテンの隙間から入る光が、赤みを帯び始めていた。
「もう五時かあ。今日はいったん解散かな」
小春も立ち上がり、軽く胸をそらす。
「だな。明日はどうする?」
「明日はキミの家でいいかい?エアコンもないし、こんな部屋じゃ何もできないよ」
小春が扇風機にへばった顔を向ける。
「ああ、そうしよう。正直かなりきつかった」
ここは元々資料準備室とかいう部屋で、授業もしていなかった。だからエアコンはないのだ。記録的猛暑を更新し続けるこの時期には、苦行でしかない。
「さて、と。じゃあボクはもう行くよ」
カバンを担ぐ小春。つい数秒前と違い、雰囲気に緩みは一切ない。
あの日以来、おれたちはある程度部活をした後は別行動を取るようになった。小春はいつも芦引大秋の情報を集めに行く。さっきまでは事件全体の情報整理だったが、ここからは父親の居場所に関する情報を重点的に。
「キミも今から行くんだろう?熱中症には気を付けたまえ」
「ああ、お互いにな」
そしておれも立ち上がる。行く場所は、あそこだ。
既に日は傾き、山の間の道は完全に影になっていた。暑さはましだが、木が多いとセミの鳴き声がとてもうるさい。まるでシャワーのように降り注ぐ。不快指数は昼間と変わらないだろう。いずれ慣れるかと思ったが、そんな日は来そうにない。
ただ、たとえ倒れようと、ここに来るのをやめるつもりはなかった。
川の横を立ち漕ぎで駆け上って行く。見慣れた柳の木が、風に揺れて緑の葉をさらさらと流していた。
それを見るといつも、彼女の髪を思い出す。たとえ感情がなくとも、常に脈動し、命を主張していたあの緑を。
あの日以来、ずっと高砂を探し続けている。しかし彼女の姿はおろか、ボタニカロイドを見たという情報さえ一切掴めていない。ネットの掲示板やSNSでも、あの緑色は何だったのか、と過去の話題になってしまっている。そうやって目撃情報が完全になくなってしまったため、今は伊谷市内の学校や施設は普通にやっている。
「……」
自転車を漕ぎ続ける。体が熱くなり、汗が出る。
ただ、あの時感じた熱はこんなものではなかった。目の前で龍のようにうねり、全てを焼き尽くした炎。彼女もあの業火に巻き込まれた。最初はそう思っていた。
しかし旧校舎の焼け跡から死体は一切出ていない。芦引大秋や信濃咲音だけでなく、高砂莉子や、他のボタニカロイドだって、骨の一つもだ。勿論、灰になって残らなかった可能性はあるし、完璧に死体を回収されたのかもしれない。
“最後に名前を呼んでくれたのが、開人君で本当に良かったです。”
しかしその声が今も耳に残っている。周りがどんなにうるさくても聞こえる。目の前にいないのはわかっているのに、ほんの少しの微笑が見える。
もしかしたらおれは信じたいだけなのかもしれない。高砂莉子が生きていることを。
……けど、それでも信じたい。
探すことを諦めてしまえば、それは高砂が死んだことを認めたも同然だ。
もう友達なんかじゃなくたっていい。おれを殺したいほど憎んでくれていい。
だからせめて、命を。
人間としての心を。
自転車を降り、頂上へ続く石の階段を登って行く。
木々の中にいると湿気がまとわりついてきて、息が苦しかった。
それでも階段を上り切ると視界が開ける。稜線に落ちて行く太陽と、眼下に見える伊谷の町。
ここの景色は綺麗だ。
そう言葉ではわかっているけど、美しさを感じられなかった。
おれ一人でいたって、この場所に意味はない。
じゃあなんで来たのか。
理由は単純だ。ここなら、高砂がいる気がするから。
けど、そう思い通りにいくわけがない。
怪談から一番遠いベンチの右側に座り、誰もいない左側を見る。
もう一ヶ月が経った。
けど、たった一ヶ月だ。
もう一ヶ月でも、一年でも、十年でも、ここに来続ける。
そしていつか……この景色を。
あの日見たこの夕日を、また一緒に見られるように。
風が顔を撫でる。暑さが和らいできた。暗くなりそうだし、そろそろ帰ろう。
そう、思った時だった。
「なんで」
不意に聞こえた声。弾かれたようにそちらを向く。
ベンチの左側。眩しく白いワンピース、その襟口に触れる緑の髪。
「なんで私と仲良くしてくれるの?」
「あ……」
彼女の姿を見て、一瞬、全く何も考えられなかった。惚けて固まったまま、こちらに向けられた緑の瞳を見ていた。
高砂莉子がそこにいる。
夢じゃないか、幻覚じゃないかと思った。
けど彼女の髪と瞳は、紛れもなく命を主張していた。その強さは、ただの心象風景じゃない。そう確信できた。
「高砂……高砂、なのか?」
けどそう聞かずにはいられなかった。彼女は生きていると信じていたけど、その思いに比例するように、彼女の死に対する不安は大きくなっていた。だからどうしても確認せざるを得なかった。
そんなおれを見て、高砂はくすり、と目を細めた。
「今は私が聞いているの。答えて」
軽く嘲笑うように言う高砂。
ああ、本物だ。
もし今目の前の彼女が幻想だったとしたら、こんな言葉を掛けてくるはずがない。胸焼けしそうなほど甘ったるく、「開人君に会えてよかった」なんて薄っぺらい慰めをくれるはずだから。
「ねえ、どうして?」
首を傾げる高砂。
ようやくまとまった思考が出来るようになったおれは、過去を省みて、ゆっくりと言った。
「……そう出来ない自分が、嫌だったからだと思う」
当時、小学六年生のおれが理解していたかはわからない。
けど今思い返すとわかる。あの時高砂に話しかけたのは、決して彼女を助けたかったからじゃない。クラスのリーダー、ヒーローという自分を保ちたいが故の行動だった。
「偽善だったんだね」
高砂は言葉を吐く。
「私が寂しそうにしてたから助けたかったとか言って、その本心は私じゃなくて自分のため」
「ああ。……おれはおれのために、高砂と仲良くした」
「そう、最低だね。貴方がいなければ、私は人間のまま生きていられたはずなのに」
「……」
彼女の言葉の一つ一つが、おれの心を粉々に砕いていく。
覚悟はしていた。彼女に再び会うという事は、自分の罪を裁かれる事だと。
けどこうして正面から断罪されて平気でいられるほど、おれは強い人間ではない。今も高砂に対する罪悪感でどうにかなってしまいそうだ。
「でも、ありがとう」
「えっ?」
予想だにしない言葉が出てきて戸惑う。
「貴方がどう思っていようと、貴方のおかげで私は救われた。短い時間だったけど、あの時は本当に毎日が輝いていた。小学校六年間で初めて学校に行くのが楽しかった」
高砂が夕日を見つめる。その顔はとても穏やかで、まるで自分の宝物を見つめているようだった。
「だから、貴方が許せない」
しかし再びおれを見た時、その視線には明確に怒りと、嘆きと、哀しみが込められていた。
「どうしてあの時、あいつらから助けてくれなかったの?どうして、私の味方だって言ってくれなかったの?私は心から貴方のことが好きだった。その貴方に裏切られた私の気持ちがわかる?こんなに辛いんだったら心なんていらないって思った。だから私はボタニカロイドになって心を捨てたの。……でもね、本当に許せないのはそんなことじゃないの」
息をつき、きっ、と刺すような視線をおれに向けた。
「どうして変わってしまったの?私を助けてくれた貴方から、どうしてそんな貴方に変わってしまったの?せめて貴方が昔のままでいてくれたなら、私は自分の存在を肯定出来た。私は貴方に救われる価値のある人間なんだって。けど貴方は卑怯な、全てから逃げ続ける人間になってた!」
高砂が身を乗り出し、自分の胸元を強く握りしめる。
「じゃあ私は?貴方に救われた私は何だったの?貴方のヒーローごっこに弄ばれて、捨てられて!ボタニカロイドにされる時、ずっと痛かった!辛かった!あの時の私の心の拠り所は、貴方と一緒にいた記憶だった!いつか開人君が助けてくれる、ボタニカロイドになった後だってずっとそう思ってた!でも結局貴方がやっていたこともあいつらと同じ、他人を自分の玩具にして、使い捨てるだけ!貴方だって怪物じゃない!」
「……」
何も言い返せなかった。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
結局のところ、おれはずっと同じことをやっていた。自分をリーダーたらしめるために高砂莉子を使い、その時に受けた傷を癒すために芦引小春を使った。やっていたことは芦引大秋と同じ。自分の楽しみのために他人を駒にしていた。
「ねえ、今どんな気分?」
高砂は冷笑し、ワンピースのボタンを一つずつ外し始める。はらり、と白い布が落ち、肩口、腕、胸、腹が露わになる。自分の肢体を、おれに見せつける。
「私は貴方に壊された玩具。この体も、心も、高砂莉子という全てが。そんな私を見てどう思う?苦しい?」
「……ああ」
苦しい。
上手く息が出来ない。
ぬるい夢が覚めたようだ。その中でおれは怪物になりそうな相棒を守るとか言っていた。自分のことを棚に上げて。
「あーあ。せっかく相棒とよりを戻せたのに、気づいちゃいけないことに気づいちゃった。どうする?また引き出しの奥に閉じ込める?それとも……ここで殺す?」
高砂は立ち上がる。ワンピースをその場に脱ぎ捨て、柵の前に立つ。彼女の背後は急な斜面が下に向かって続いている。
「ここから突き落とせば、さすがの私でも死ぬ。ボタニカロイドの死体はあいつらが処理するから、貴方が法に裁かれることもない。私が消えれば貴方は苦しまずに済む。芦引小春との楽しい高校生活が待っている」
両手を広げる高砂。
一瞬、おれの内に猛烈な衝動が生じた。
もしここでこいつを殺せば、おれは解放される。
過去に囚われることなく、前だけ見て生きていける。
それはあまりに強い誘惑だった。
おれも立ち上がり、高砂の元へ歩いていく。彼女は口の端を吊り上げ、おれの手を自分の胸に当てた。
「さあ、落として。私は死ぬよ?貴方は生きられるよ?ほら」
「……よせよ」
反射的に手を振り解いていた。
「ふふふ、殺さないんだ。それで全部おしまいなのに」
「……できるわけないだろ」
彼女に触れていた右手に目を落とす。血色は悪く、ふるえている。それでも、強く握りしめる。
「仮にここで高砂を殺しても、何の意味も無い。高砂莉子を、心の引き出しの中に閉じ込めるだけだ。同じ過ちは繰り返さない。高砂を見て一生苦しんだっていい。おれは自分の罪を無視しない。そう決めたんだ」
「そう」
高砂はおれの両頬に触れる。
「じゃあ、一生苦しんで」
顔を近付け、自分の唇をおれの唇に重ねる。
「……っ!」
ガリっと、繊維が裂かれたような衝撃がして、鋭い痛みが走った。
高砂が顔を離す。裂かれた唇は異様に熱く、血が顎を伝って地面に落ちた。
「……ふふ」
高砂の口元にも血が付いていた。彼女はそれを拭った指で、おれの左の首筋を撫でた。
「開人君。私はこれからずっと貴方の傍にいる。貴方がどれだけ泣き喚こうが、拒もうが、必ず」
風が吹き、高砂の髪が舞う。彼女の左の首筋には、赤黒い傷跡があった。
「その苦しみを見送るために、私は生きるから」
心がらせんを描くから nemu @hammer_head
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。心がらせんを描くからの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。