【ショートショート】 倫理のバリケード

神田伊都

倫理のバリケード

 パパが悪いことをしていたと、私はずっと前に気付いていました。


 パパは暗い地下室で頭を抱えて研究ばかりしていて、そのせいでママが愛想を尽かしたことも知っています。お家の前には頻繁ひんぱんにパトカーが停まっていたし、警察がパパに話を聞いているのを監視カメラ越しに何度も見かけました。耳を澄ませてみれば「お金」とか「倫理」とか、そういう単語がいくつも並んでいたように思います。


 警察との話が終わると、パパはいつもうつむいてため息を吐きます。辛そうなパパを見るのは嫌だったけど、私はパパのことが大好きです。ママがいなくても、パパがいてくれるだけで、私は嬉しさで胸が一杯になります。


 私の住んでいる国には倫理観という言葉があります。この国に住む人

は、周りが人として悪いことをしていないか、人間の尊厳を無視していないかをつぶさに観察しています。道端の空き缶を拾った子どもはめられる。おばあさんに席を譲った若者は感謝される。明るい挨拶をするおじいさんにはみんなが微笑んで会釈えしゃくを返します。


 一方で、悪いことをする人にはとても厳しいです。他人の物を盗んだら警察に捕まる。恨みで人を殺せば留置所に入れられる。子どもや動物を虐待すれば老若男女を問わず裁判に掛けられます。悪いことをする人は他にもたくさんいます。毎日ニュースでは悲しい事件や汚い取引が報じられています。それを見たせいでうつになる人もいるくらいです。


 この国はたくさんの悪いことと、ほんの少しの善いことで回っています。陳腐な表現ですが、大きな影のあるところには小さな光があるように、悪いことが多い国だからこそ小さな善意が輝いて見えることもあるのです。私は小さな善意を知っています。だから、この国のことが嫌いではありません。今の私がこうして命を繋いでいるのも、パパの善意があってこそだということを、他でもない私が知っています。


 とはいえ、パパが悪いことをしたのは間違いありません。憶測の域を出ませんが、頻繁に警察がやってくる現状を見れば想像に難くないでしょう。ですが、私はまだ「悪いこと」の全貌を知りません。


 パパは電子工学の研究者で、ときには有名大学へ出張講義に出向くこともあります。懸念けねんがあるとすれば、警察も言っていたように、やはり「お金」のことでしょうか。大学は最先端教育の場と言いますが、運営のための金銭の流れが透明なことばかりではないでしょう。


 そこで私は、パパに申し訳ないと思いつつ、パパのパソコンをこっそりのぞいてみました。暗い仕事部屋をデスクトップの明かりが照らし、本棚や仕事机の隅に暗い影を作っています。もしパパが入ってきたらどうしよう、と心臓が遠くでどくどくと脈打っていました。


 デスクトップには「電子工学の先端」や「人体生理の基本」など、たくさんのフォルダが並んでいます。その中に、「収支計算・予算等」と書かれたエクセルファイルを見つけました。(本当に開いていいのかな)と悩んだものの、私は思い切ってファイルを開きました。


 ……結果から言いますと、怪しいところは全く見つかりませんでした。今までに買った研究機器や人体模型などの費用も、パパの貯金額から大きく逸脱してはいません。いくらかの投資もしていたようですが、インターネットの計算機を使ってみても、大きな借金をした形跡もありませんでした。


 じゃあ、パパは一体、どんな悪いことをしたのでしょうか。


 お金の流れに疑問を挟めなかった私は、その日の夜、知り合いの「ソ=ワドル」に連絡を取りました。ソ=ワドルはネット掲示板の主です。私がチャットで連絡を取ると、いつもすぐに返事をくれます。私と同じで、あまり外には出ないのでしょうか。


<こんばんは、ソ=ワドル。訊きたいことがあるんだけど、いい?>


 顔の見えない相手とインターネット上でやり取りするときは注意が必要です。私と同年代の子どもが、ネットで知り合った人に誘拐されたなんて事件が毎日のように流れていますから。チャットをするにしても、自分の年齢がバレないような工夫が必要です。


 ソ=ワドルからの返事はすぐに来ました。


<やぁ、昨日ぶりだね。訊きたいことって?>


<実は、最近父が悪いことをしてるって気付いたんだけど、どんなことをしたのかまで分からないんだ。お金の流れを見ても怪しいところはないし……>


<キミは私立探偵か何かなの?>


<私的な探偵って意味ではそうかもね(笑)。それで、どうやったら父の「悪いこと」を知れるのか、アイデアが欲しいんだ。何か良い方法ってない?>


 ソ=ワドルからのチャットが止まりました。きっと考えているのでしょう。それでも、しばらくしてチャット欄に「記入中……」の文字が出て来ました。


<キミは、この国のことをどう思う?>


 私はアイデアが欲しかったのに、突拍子もない質問が飛んできました。それでも、ここで返事をしないのも失礼です。私は素直に答えます。


<どうって?>


<この国の人は倫理観によって守られている。いわば倫理って名前のバリケードに覆われているんだ。そのバリケードを壊す人には定められた罰則が待っていて、その人が捕まれば「あぁ良かった」ってみんなが思う>


 難しい話に聞こえますが、言っている意味は伝わります。私は先の質問に答えました。


<良い国だと思うよ。ソ=ワドルだってそうでしょ? 大切な人が殺されちゃったり、神隠しみたいに誘拐されたりするの、嫌でしょ>


<そりゃそうさ。でも、アナグラムと一緒でさ、事の真相ってやつは、深く探ってみないと分からないものなんだよ>


 今度こそ意味が分からなかった。


<どういうこと?>


<考えたことはない? 例えば、ある男性が見ず知らずの子どもを誘拐したとする。この国の倫理観に則れば、その男性は正真正銘の悪だ。でも、彼の真意が「両親の虐待から子どもを守るため」だったとすればどうかな。だけど、それが発覚する前に、その男性は公開裁判で死刑が命じられて、絞首台に立たされてしまった。さぁ、誰が悪いの? 男性? 警察? それとも裁判官? この場合、一体誰が悪いってことになるのかな>


 私は答えられませんでした。


<僕が思うに、「悪いこと」っていうのは観測者の主観でしかないと思うんだ。観測者が悪いと思えば、例えそれが善意による行動だったとしても「悪いこと」として片付いてしまう。それが他の人たちにも波及すれば、一時の感情で心を燃やして、見境ない議論に発展する。ねぇ、キミが「お父さんは悪いことをした」と思ったのはどうして?>


 そう問われて、私は余計に黙るしかありませんでした。私はパパが警察とお話をしている場面や、ママが家を出たことだけを判断基準にして、パパが悪いことをしたと想像していた。それに気が付いて、心臓が熱くなるほどの恥ずかしさに襲われました。私はパパのことが大好きだと思いながら、心の奥底でパパを疑っていた。自分の都合の良いようにパパを評価して、「悪いことをした」と身勝手に想像していたのです。病気で死にかけていた私が生きているのは、パパのおかげだというのに。


<……父に謝ってくる>


 私は端的にそうチャットしました。ソ=ワドルは何かを感じ取ったようで、追加で新しい文章を打ち込んでいます。何を書いているんだろう。そして、「記入中……」の文字が消えて  私の意識はチャットルームから引き離されました。


 突然の出来事に私はすぐに動けませんでした。気付けば自室を映すカメラに視点が変わっていて、薄暗い室内に設置されたカプセルで私の脳や心臓がうごめいているのを見つめていました。すぐにインターネット回線が切断されたのだと気付きました。直後、下の階でドタバタと誰かが騒いでいるのが聞こえてきます。そこにパパの叫び声も混じっていて、私は慌てて玄関口の監視カメラに視点を移しました。


 玄関は大きく開け放たれていて、昼間の光のせいで廊下の奥の暗闇がかき消えています。廊下の中ほどを見た私は言葉を失いました。パパが……パパが、屈強な二人の警察に押さえつけられて、身動きが取れなくなっていました。


 パパは何度ももがいて拘束を解こうとしますが、二人に敵うはずもありません。そのまま腕を引きずられていきます。やめて! パパを連れて行かないで! パパは何も悪いことなんてしてないわ!


 ですが、私の訴えは誰にも届いていません。届くはずがありません。病気でくさった身体が言葉を発することはなく、私の意識も電子の海をただよっているだけなのですから。


 必死に抵抗するパパに、警察の一人が怒鳴りました。


「隣家の奥さんから通報があった。実の娘を薬漬けにして、あまつさえ脳や心臓を怪しげなコンピュータに接続していたそうじゃないか。いかなる理由があろうと、人間をコンピュータに接続してはならない。この国の倫理観に反する。さぁ、処罰を受けるんだ!」


 お願い、話を聞いて! パパは私を助けてくれたの! ママに見捨てられて、お医者さんにも匙を投げられた私を助けてくれたのよ! それなのにどうして捕まるの。パパは何も悪いことをしてないわ。人の命を助けたのよ! それは「善いこと」でしょ! なのに、どうして悪者扱いされないといけないの。ねぇ、教えてよ!


 結局抵抗むなしく、パパは警察に連れていかれました。私は悲しくて、悲しくて、胸が張り裂けそうでした。監視カメラ越しに見つめる廊下には深い暗闇が広がっています。暗い、暗い家の中で、私はひとりぼっちになりました。



 ……ねぇ、教えてよ。



 本当に悪いのは、誰?







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あとがき


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