第4章-2

 山岸遥は長い黒髪をかき上げ、運動部の生徒が散らばる校庭を見下ろした。太陽にさらされる生徒たちは、日差しを当たり前のものとして構う様子はない。そんな気概など、自分はいつの間にかどこかに置いてきてしまった。速やかに日差しのない、来たばかりの入り口の方へと戻る。物陰に避難して、顔を手で仰いだ。

「あれ、もう外は見なくていいのかよ」

 恵太が声をかけて来た。突然現れた見ず知らずの女を、幽霊と呼ぶよう強いられるという、理不尽な被害者の高校生。初めて会った時より、ひたむきな顔を多く見せてくれるようになった気がする。彼に幽霊と呼ばれるのは、きっと今日が最後になる。

「屋上なんていつ以来だっけ。暑くてびっくりしちゃった」

 この暑さは予想外だ。思えば、木陰と水脈に守られていた唯の家と、遮るものの少ないアスファルトの屋根の上では条件が違って当然だろう。

屋上に連れて来て欲しいと願ったのは遥だった。唯がよく居たというこの屋上が、恵太が全てを知るのに相応しい場所だと思ったのだ。

真実を知った時、彼はどんな顔をするのだろう。私がしてきたことは正しかったのだろうか。一つ確かなのは、私はどんな非難も受けるべきということだ。遥は頭の中で確かめる。

恵太が近寄ってきて、日陰の中に並んで立った。

「うわ、ここ涼しいじゃん」と恵太が呑気に呟いている。遥は構わず、意を決して口を開いた。

「そろそろ、本当のことを言わないとね」

「なあ、その前に」

 恵太が鼻先を掻きながら、言いづらそうにこちらを窺う。何事かと、遥は無意識に瞬きを繰り返した。

「これって、俺が怒られる話?」

「え?」

「いや、俺のことムカつくって言ってたからさ。メチャメチャにキレられるのかと思って」

「何言ってんの。そんな話じゃないよ」

 遥は全身の力が抜けそうになった。思っていたより空気の読めない奴なのかと、嘆きたくなる。

「じゃあ、幽霊がなんかしたって話?」

「なに。なんでそんなこと聞くの」

 ごまかすような薄ら笑いを浮かべていた恵太の顔から、一瞬感情が消えた気がした。

「ここ来るまで考えてたんだけど。幽霊が、ずっと死にそうな顔してるから。まあまあヤバイことなのかな、と思ってさ」

 遥は言葉に詰まり、何も返せなかった。

「先に言っとくけどさ、多分大丈夫だって。幽霊がいなかったら、ここまでやれなかったと思う。だから」

 遥は顔を上げた。恵太は、不自然なぐらいに笑って手を広げた。

「あんま暗い顔すんなって。いつもみたいになんかこう、堂々としてろよ」

「何それ、急に大人みたいなこと言って。生意気」

 遥がか細くなった声で強がると、恵太は受け止めるようにただ笑う。その声が優しければ優しいほど、これからする告白が怖くなる。どんな顔をしていいか迷ったが、結局つられて少し笑ってしまった。

 本当は弛緩した空気に身を委ねたかった。遥はそれを振り切るように、強張る口元を無理やり開く。

「私ね、幽霊なんかじゃない」

「そりゃま、そーだろうな。信じてねーよ、最初から。でも、だとしても分かんないことだらけだ。そもそも、なんで幽霊なんて名乗ったんだよ」

 恵太が軽口ぶって歯を見せる。あくまでも責める気持ちはないと、意思表示をしているようだった。

「あれはね、罰のつもりだったの」

「罰?」

 裏返った声が返ってくる。

「そう。安易に死にたいなんて思っていた、自分への罰」

 遥は浅はかだった日々を思い出す。嫌悪感で目を閉じそうになるのを振り払った。

「バーで、私が死んだ理由のことを話したでしょ?」

「ああ」

「あの話は嘘じゃないよ。でも、死にたくなったのはその時じゃない。私はね、体も心も疲れきって、仕事を辞めたの。それで、カフェでバイトをするようになった。そうしたらね、自分の生きる意味が分からなくなったの。何のために一生懸命勉強して、頑張ってきたんだろうって。そんな毎日を繰り返してたら、死にたいって思うようになった」

 遥はこめかみに力を入れ、湧き上がる憤りを押さえつける。ディミアンで言えなかった、くだらない真実。唯がいなかったら、今もその浅はかさに気づけていなかっただろうと思うと、背筋がうすら寒くなる。

「唯ちゃんはね、そんな私を救ってくれたの」

「唯を知ってたのか?」

 恵太が意外そうな声を上げると、遥は小さく頷いた。

「それも不思議だったんだ。唯から、知り合いの話を聞いたことはほとんどなかった。だから、幽霊がもともと唯と知り合いだったとは思えなかった。唯とはどういう繋がりがあったんだ?」

「唯ちゃんは、私が働いてたカフェによく来てたの」

 いつも、一人で来ていた。窓の桟に小さな木の人形が腰かけている席がお気に入りで、いつからか先客がなければそこに案内していた。高校生がお茶をするには少し贅沢な値段設定で、一人で何度も来店する唯は自然と印象に残った。ゆっくり話す機会はなかったが、コーヒーを持っていくといつも本を読む手を止め、はにかんで頭を下げる姿が可愛らしい子だった。

「唯がよく行ってた喫茶店って、もしかして」

「そう。君と体の大きな男の子が二人で来た店」

 恵太が息を呑むのが分かった。

「あの時、俺たちのことを見てたのか?」

「ここまで言っても思い出せないか。意外と、他人の顔って覚えてないものね。私は、君たちのテーブルに二回も行ったんだけどな」

 不満そうに言いながらも、幽霊を名乗る上で遥の一番の懸念はそこだった。眼鏡を外して髪型を若干変えはしたが、恵太が顔を覚えていたら言い逃れは難しかっただろうと思う。

 絶句している恵太を気にかけつつ、遥はさらに話を進める。まだまだ、伝えなくてはいけないことが残っている。

「あの時、私は自分が許せなくて仕方がなかった。唯ちゃんが死んだと知ってね。唯ちゃんがどれだけ生きたかっただろうって思うと、死にたいなんて考えてる自分がすごくちっぽけに思えた」

 自分のことを殺したいぐらい嫌いになった。何か気が付けることはなかったのだろうかと自分を責めた。答えが出ないまま過ごしているときに現れたのが、彼だった。

「君の名前が聞こえた時、本当に嬉しかった。自分にもできることがあるんだって思ったの。でも、それも一瞬だったけど」

「一瞬って、どういう意味だ? それになんで俺の名前を知ってたんだ。唯から聞いたのか?」

 恵太の矢継ぎ早の質問に、遥は一つだけ答えた。

「あの時、君が、死にたいって言ったのを聞いちゃったんだ。君、自分で言ったの覚えてる?」

「言った……かもしれないけど」

 恵太は目を細め、俯いて記憶の糸を手繰り寄せるかのように唸っている。

予想通りの反応。遥の思った通り、そこに深い意図はなかったのだ。軽々しく希死念慮を口にする恵太を見つけたあの時。殺したいほど憎いと思っていた自分と恵太が重なった瞬間だった。

「まあ、そんなところだろうね。だから私はムカついたの。唯ちゃんが思いを託した相手がよりにもよって、死にたいなんて軽い気持ちで言い出すなんて」

「思いを、託す?」

 恵太が遥の言葉を拾い、不思議そうに見つめてくる。

遥は胸が狭く、呼吸がしづらくなるのを感じた。目の端が滲んで、感情の爆発を抑えられるか不安になる。許されることではないと知りながらずっと隠し持っていた、唯の最後の意志に手をかける。

「ごめんなさい。これは、君のものなの」

 片手で握りしめたそれを、遥は恵太に差し出した。

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