第1章-6
季節の変わり目、霧雨が舞う外の天気も、室内に入ってしまえば実感が湧かない。冷房で作られた乾いた空気に、拒否反応のようなくしゃみが出る。平日昼間のフリータイムを利用してのカラオケボックス。学校行事の振り替え休日を、最大限活かした過ごし方だと恵太は自画自賛した。
曲を歌い終わって、軽く咳払いをした。もう知っている流行りの歌は一通り歌い尽くし、小学生のころに好きだったアニメの主題歌を思いつく限り挙げる。竜海の番が終わっては歌う。二人とも、引き延ばしが目的になっていることに薄々気づき始めている。薄暗いカラオケルームの中、会話もない代わりに歌手の新曲紹介のコメントだけが流れていた。
「次、入れろよ」
虚ろにモニターを眺めながら、恵太は意味のない強がりで曲が止まるのを拒んだ。
「待て、もう限界だ」
竜海が先に根を上げ、五人は座れそうな長いソファーに全身を預けている。L字型に二脚並んだソファーのもう一方で、恵太も思わず横になった。頬に座面のゴムの感触が当たって、普段は蒸発するはずの汗が肌に押し返されてくる。ことごとく嫌になって、恵太はすぐに起き上がった。ちょうど起き上がった目線の先にあったスマホが光ると、テーブルと反発し合ってしつこく音を立てた。考えるより先に手を伸ばし、画面に目をやる。
「唯かー?」
竜海が天井を仰いだまま、寝起きのような声を絞り出す。画面を睨んだままの恵太が「やっぱり」と呟くと、それだけで竜海には意図が伝わったようだ。
「来れないって?」
「ああ」
恵太は了解のスタンプだけ返すと、もう不快な音がしないようスマホをソファーに置くことにした。
「フラれたかー。せっかく珍しく恵太が誘ってんのにな」
「フラれたって言い方止めろよ。なんか、負けた気がするだろ」
「ん、フラれたんじゃないのか? それか夫婦喧嘩だったか?」
重たそうに体を起こしながら、竜海がからかいの笑みを浮かべてくる。
「お前までクラスの女みたいなこと言うなよ。そういうんじゃないって知ってるだろ」
この話題には辟易しているので、恵太は遠慮なく不快感を露わにした。
「恵太が違うって言っても、唯がどう思ってるかは分からないだろ? ちくしょう、俺だって彼女欲しい」
ソファーに横になって愚痴をこぼす竜海は、ふて寝をしているように見える。上本達と男四人、女四人で遊びに行くと言っていた件は、結局相手側の都合で中止になったそうだ。よほど悔しいのか、竜海はことあるごとに彼女が欲しいと繰り返すようになった。
竜海はリモコンを使って、モニターから流れてくる音を消した。代わりに、遠くから同年代と思われる団体のはしゃぐ声が聞こえてくる。聞こえてくる断片で、下ネタを多分に含んだ歌だと分かった。
「ほら、この謎の歌をBGMにすれば、頑なな恵太も恋愛を語る気になるだろう」
投げやりに言って、竜海は肩をすくめた。
「全然ならねえよ」
竜海は頷くと、天井を仰いで「おーい、曲変えてくれー。バラード頼むわあ」と届くはずもない掠れた声を送る。
「ダメだ、喉死んでる。ちょっと飲み物取ってくるわ」
立ち上がる際に、同じ飲み物でいいか確認してきたので恵太は同意して見送った。二人いても広すぎた部屋に取り残され、疲労した頭に竜海の言葉がぼんやり響く。唯がどう思ってるか分からない? 恋愛感情という意味で言っているのだろうが、恵太には唯にそんな感情があるようには思えなかった。そもそも、普段から唯が何を考えているのか想像し難い。唯に考えを見透かされることはあっても、常人が唯の思考回路に近づける日はない気がしている。
そう思うのは、最近の唯から受ける違和感の影響もあった。二、三週間前からだろうか。唯の様子がおかしい。竹内からの頼み事を引き受けると言った頃からだ。時々具合でも悪そうに俯いていたり、授業を休んだり。何か悩みでもあるのかと見かねて、恵太は三人でカラオケでも行こうと誘ってみた。唯は以前となんら変わらない様子の笑顔で「行く」と即答してからの今日だ。「少し遅れる」と連絡があったかと思えば、とうとう「やっぱり行けない」と断りの連絡が来たのが先ほど。
恵太としては内心、一度思いきり遊べばいつもの唯が戻ってくるのではと、根拠のない期待をしていた。現実は、ガス抜きをすることさえ叶わないという事態になってしまっている。
「お待たせ」
ドアが開き、竜海が両手にコップを持って戻ってきた。礼を言って受け取る。
「そんで、話す気になったか?」
二年生になって唯と接点が減った竜海は、唯の異変のことを話しても重く受け止めていないようだった。それよりも、竜海が見ていない間に二人に進展があったのではないかと勘繰っている。
「今日来ないのだって、二人で会おうって話じゃなかったのがショックだったんじゃないか? 最近調子がおかしいのも、二人の関係に悩んでるからだったら全部説明がつくだろ」
「あのな」
恵太がテーブルに頬杖をつき、竜海を見据える。何を思ったのか竜海は靴を脱ぎ、ソファーの上であぐらをかいた。
「なんだ?」
腕組みをして竜海が身を乗り出す。あぐらは、話を聞こうと姿勢を正した結果のものらしい。
「お前、彼女に毎日学問の話をされたいか?」
「は?」
竜海が間抜けな声を出し、意味が分からない、と首を捻って見せてくる。構わず恵太は続けた。
「唯はな、なんていうか、研究者なんだよ。好きな話題は生物学とか天文学とか、特殊相対性理論にはロマンがあるとかなんとか、そういう感じなんだよ」
「ああ、そういや一年のころもよくそんな話をしてたな」
「昨日話してたのはなんだっけ、ミトコンドリアについてだぞ。お前知ってるか? ミトコンドリア」
「知ってるぜ。なんか、SF映画かなんかで聞いたことあるからな」
一気にまくしたてるつもりだったが、恵太は一息ついた。竜海の返答が、昨日の自分と全く同じで親近感が先立ってしまったからだ。恵太が話題に付いていけないと、唯は馬鹿にすることもなく解説してくれる。そんなことが繰り返されると、自分は頭が悪いんじゃないかと不安になることがある。竜海の平凡な反応に、いくらか安心させられたところがあった。
「とにかくな、あいつと俺じゃ、見てる世界が違うんだよ。俺は唯をそういう相手として見れないし、唯も同じに決まってる」
黙って聞いていた竜海はいつの間にか空にしたコップをあおって、氷を一気に口を含んだ。ゴリゴリと音を立てて噛み慣らし、眉間にしわを寄せた。
「消極的だな。いいじゃん、毎日頭が良くなりそうな彼女ができるってことで」
無意識に出る舌打ちを止めることができない。竜海が「そんな怒るなよ」と軽い調子で返すので、恵太もそれ以上は追及しないことにした。
「でもな、その気が無いんならそんなに唯に構わなくてもいいんじゃないか? 今のお前、本当に唯が言ってた生け贄ってやつみたいだ」
「生け贄? どこが?」
「お前、とばっちり食らってるんだよ。気づいてるか? 唯のこと、俺のクラスのところまで噂が流れてきてるぞ」
まだ何を聞いた訳でもないのに、噂という言葉だけで不快な感覚が走る。
小学校の頃、仲が良かった友達の父親が元泥棒だと噂になったことを思い出す。噂が本当かどうかは分からないまま、恵太は何となく距離を置くようになった。ほどなくして転校していった彼は、噂が無ければ今も仲の良い友達だったのだろうか。
罪悪感に飲まれそうになって、恵太は思い出すのを止めた。
「なんだよ噂って」
恵太の食い入るような目線から、竜海は逃れるようにテーブルの上に転がっていたマイクを取り、手の中で遊ばせ始めた。
「唯が成績良いのは、誰か教師に贔屓されてるからだとさ。あいつ、今も授業を全然聞かずに本ばっか読んでるんだろ? しかも部活にも入ってないのに遅く帰るところを見られて、裏でこっそり教師に会いに行ってるんじゃないかって言われてる」
唯のことを少しでも知っていれば、なんの躊躇もなく否定できる話だった。唯はそもそも遥か上のランクの高校から転校してきているし、そうでなくても頭に事典が詰まっているような変人だ。授業など聞かなくとも問題ないだろうし、帰りが遅いのは図書室で調べものに夢中になった時だろう。それほど頻回にあることでもない。ひどく薄っぺらいこじつけ話に、恵太は乾いた笑いを漏らす。頭の中では、何も笑えることなどなかったが。
「誰が信じるんだよ、そんな作り話」
「唯のことを知らない奴だろうな。俺と恵太以外の二年生全員ってことだ。いや、もしかしたら他の学年でも知ってる奴はいるかもしれない」
くだらないと言って笑い飛ばすことを、竜海の強張った顔が許してくれそうにない。恵太は、鼻を鳴らして意に介さない態度を示すのが精いっぱいだった。
「それで、恵太の話だ。唯がお前と仲が良いのも、何か狙いがあるんじゃないかって噂になってる」
「狙いってなんだよ」
「知らん。何か狙いがあるってことにするだけで、噂を流したい奴からしたら都合がいいんだろうよ」
「誰だよ、噂を流したい奴って」
自分たちの知らないところで、根も葉もない話が伝播していっているのだろうか。圧し潰されそうなのに、どうすることもできない感覚。恵太は、怒りをぶつけるべき相手が見えないことの理不尽さを思い知った。
「これは俺の予想だがな。唯のことが気に食わない奴らがいるんだろうよ。一年の時のクラスメイトとかな」
竜海は始めこそ言い淀んでいるようだったものの、段々言葉を並べることを躊躇わなくなっていった。孤高を貫きながら成績優秀である唯への奇異の目、嘲笑、妬み。恵太や竜海との関係に対する好奇。知りたくもなかった誰かの黒い感情の話を、恵太は無言で聞いていた。
「まあ、唯の態度も良くないとは思うがな、俺は。だから恵太まで、付き合ってるわけでもないのに唯のワガママに巻き込まれる必要はないんじゃないかってことだ」
「唯ともう関わるなって言いたいのか?」
「そこまでは言わねえけど。ただ、ちょっと考えた方がいいんじゃないかと思ってな」
恵太は湧き上がる憤りを感じていた。無関係な連中の無責任な話にも、一歩引いたところから見ているように曖昧な忠告をする竜海にも腹が立つ。恵太ほどではなくとも、竜海も唯と一緒に時間を過ごした数少ない仲間のはずなのに。
「ほうっておけるわけないだろ」
なんとか声を絞り出した。他の部屋の客はいなくなったのか、いつの間にか歌声は聞こえなくなっている。繰り返し垂れ流される流行りの歌は、恵太の耳には入らなかった。
「これで俺まで関わらなくなったら、あいつのこと分かってやれる奴はいなくなるってことだろ」
いつか見た唯の思い詰めたような顔とともに、不安が頭をよぎる。何か、重大なことを見落としているのではないかという不安。もしかしたら知った顔をしている自分は、唯のことを何も知らないんじゃないか。彼女が抱える何かを、本当はもっと知りたい。それが、ぶつけようのない怒りとともに、こみあがってきた恵太の本心だった。
「それが生け贄みたいだって話なんだけどな」
竜海は恵太と目を合わさず、息を吐いた。気まずそうに宙を仰いでから、恵太にマイクを差し出す。
「悪かったな、面倒なこと言って。ほら、次の曲俺あんま知らねえから手伝ってくれよ」
「知らない曲入れんなよ」
ひったくるように恵太はマイクを受け取った。考える間もなく歌い出しになる。竜海のことも唯のことも、浮かんでくる顔をかき消すように声を張り上げた。
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