渇望
惟風
渇望
「私、今度こそ幸せになるね」
それが、涼子と交わした最後のやり取りだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢
ギャンブル狂いの親と折り合いが悪く、俗に言う不良だった賢一は、隣家の涼子とは姉弟のように仲が良かった。涼子もまた親とは不仲だった。
成人してから賢一は実家を出た。しばらく疎遠になっていたが、法事で帰省した際に涼子と再会した。
「久しぶりやね。こんな顔見られるの、情けないわ」
泣き腫らした目を恥ずかしそうに隠しながら、涼子は笑った。
「付き合ってくれって向こうから言ってきたのに、何で早々に浮気なんかするんやろね」
涼子は地味で、どこにでもいるような女だった。見た目通りに大人しく、優しく、舐められやすい。
「男を見る目が無いんは変わっとらんなあ」
薄暗いバーで、ハイボールを奢ってやった。
「ケンちゃんこそ全然変わらんね。綺麗な色のカクテルを飲ませてくれへんとことか」
グズグズと男の愚痴をこぼして、酒を煽って、カラカラと笑う涼子の瞳に、店の淡い照明がきらきらと反射していた。
「変わったところもあるで。もう喧嘩は止めた」
「喧嘩しないのが普通よ。でも、偉いわ。あんなに誰彼構わず噛み付いてたのに」
「褒めてくれるんはお前くらいやな」
賢一はグレープフルーツジュースを飲み干した。瑞々しく、甘酸っぱい味が広がった。
涼子の呂律が回っているうちに、車で家に送ってやった。別れ際に、
「ヨリ戻そう、って擦り寄ってきても、許したらあかんで。何回も痛い目みとるやろ」
運転席のウインドウ越しにおどけた調子で声をかけると、彼女は涙目で微笑んだ。
それから賢一はまた元の生活に戻り、一年ほどが過ぎた。
次に涼子と会ったのは、明るい五月晴れの午後だった。近くに来たからお茶でもしよう、と彼女の方から連絡がきた。
「私ねえ、結婚するの」
涼子はティーカップを置いて言った。綺麗に化粧をした顔で、ニコニコと話す。
「職場の先輩が紹介してくれた人でね。仕事辞めて、家に入って欲しいって」
スマホのフォルダから男と写っている画像を見せてくれた。眼鏡をかけた神経質そうな人物が涼子の肩を抱いている。
賢一は顔を上げて涼子の上気した頬を見つめた。
「そんな話が出る相手がおったなんて知らんかったな。水くさいやんか」
「だってケンちゃん、いつも忙しそうにしとるし。こっちも、付き合いだしてあれよあれよと言う間に話が進んでね」
「今度は、大丈夫なんか」
「心配してくれてありがとね。大丈夫よお。すごく大切にしてもらってるんよ。心配性過ぎて過保護なとこはあるけど」
「そうかあ。式には呼んでな」
音を立てて啜ったブレンドコーヒーは、泥を飲んでいるようだった。
男と一緒に住む家は地元から新幹線の距離にあるとのことだった。出発の日には柄にも無く見送りに行った。
オレンジ色のキャリーケースをコロコロと引いて、ゆるくウェーブのかかった髪を揺らして、涼子は去っていった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢
涼子と連絡が取れない、と彼女の両親から相談されたのは、賢一が涼子と駅で別れてから三ヶ月後のことだった。
「二週間くらい前からかな。涼子の電話もメールも繋がらんようになって」
久しぶりに通された茶の間で、涼子の父親が前置きも無しに暗い顔で話す。その隣で、涼子に似た顔の母親が俯いてじっとしている。
「それで
「結婚するつもりで一緒に住んでたのに勝手にいなくなって、逆にこっちが迷惑しとる、裏切られた気分やて。えらい剣幕でまくしたてられたわ」
「家に行ってみたんですか?」
「……行ってない。遠くて金がかかるしな」
父親は視線を泳がせた。
「捜索願とかは?」
「そんなもん、恥ずかしくてよう出さん。どうせただの家出で片づけられるに決まっとる」
賢一に、実際に金崎の家に行って調査をしてほしいとのことだった。賢一は探偵事務所に勤めていた。普段は浮気調査や身辺調査を主にしている。
今回は正式な仕事の依頼ではなく、個人的に助けてほしいという話だ。ガキの頃に飯を世話した程度の恩を振りかざすその性根に、賢一は吐き気がした。
心配している風でいて自分達は動こうとしない。頼み事をしている立場なのに顎で使おうとする。
そんな愚鈍な両親を、涼子は昔から嫌っていたなと賢一はしみじみと思い出した。
「涼子のことが心配なんは、俺も一緒です」
賢一は煙草に火をつけながら言った。とにかく、自分が何とかしなければならない。
翌日、賢一は有給を取った。
車内に待機しながら、弘人の家を見張る。古い一軒家だった。実家ではなく、元々祖父母が住んでいたものを譲り受けたらしい。
本格的な調査を始める前に、この目でちゃんと見ておきたかった。涼子が、人生を預けると決めた人間を。
弘人の帰宅を待ちながら、煙草を何本も灰皿で潰す。自然と考えるのは涼子のことだった。
騙されやすく、何度も男に泣かされていた。その度にケンちゃんどうしよう、と泣きついてきては賢一を困らせた。
相手の男に制裁を加えようにも、涼子本人がそれはやめてくれとまた泣くのだ。話を聞いてほしかっただけだと。馬鹿な女だと思っていた。金をせびられても殴られても、最終的には許してしまう。
そして、つまらない喧嘩の末に少年院に入った賢一のことまで、涼子は許した。出所後にも変わらず親しくしてくれたのは涼子だけだった。心底からのお人好しだと思った。
「ケンちゃん、もう人を殴ったらアカンよお」
それからは賢一は喧嘩をしなくなった。
思い出に浸っていると、弘人が帰ってきた。
写真で見た通りの、細見で中背の、気弱そうな眼鏡の男。レンズの奥の細い目が辺りをチラチラと警戒していて、どこか怯えているように見える。仕事で見慣れた、
家に入ったところを確認して、少し考え込む。顔だけ見たら、一度引き上げるつもりでいた。だが。
「殴らんかったら、ええんやろ」
インターホンを押した。
「はい」
無愛想で不機嫌な声が聞こえる。
「今晩は。
丁寧な口調で、なるべく落ち着いた声を出し、カメラに向かって会釈した。
しばらくして、解錠する音が聞こえた。
「……伝言って、何ですか」
扉を開けた弘人の声は震えているようだった。
「失礼します」
玄関に上がり込む。女物の靴は無かった。首を伸ばして家の奥を覗いてみる。人の気配は感じられない。弘人は、賢一の行動に困惑した表情をしながらも忙しなく視線をさまよわせている。
時間をかけてもしょうがないので、賢一は単刀直入に切り出した。
「涼子、どこへやった?」
「は?」
弘人はあからさまに狼狽した。口をパクパクさせてすぐには言葉が出てこない。
「……あ、アンタ、いきなり来て何を言い出すんですか! 涼子とどんな関係があるんか知らんが、アンタ」
賢一は身を乗り出すと、弘人が言い終わらないうちに彼に足払いをかけた。
真後ろに倒れ込んだ弘人の股間を蹴り上げて、悶える様を見下ろす。
弘人の髪を掴み、顔を近づける。
「涼子な、今、どこにおるん?」
目を合わせてゆっくりと言葉を切ると、弘人は啜り泣いた。
少し怯えさせすぎたようで、話を聞き出すまでに時間がかかった。
隠していた借金がバレて喧嘩になった。カッとなって首を締めたら動かなくなった、車で山に運んで土に埋めた。
おおよそ賢一の想像していた通りの内容だった。涼子が連れて行かれた正確な場所を聞き出すために、賢一は弘人をさらに何度か痛め付けなければならずうんざりした。
身体のあちこちから出血している弘人を車の後部座席に押し込んで、賢一は山に向かった。
真夜中の山道はライトが照らす部分以外はのっぺりと暗く、静かだった。車内に、弘人のヒューヒューという呼吸音が響いて鬱陶しかった。
雑然と木々や雑草が並ぶ山の中腹を歩いていくと、ぽっかりと土肌が露出している部分が見えてきた。引きずるように弘人を連れてきて、真っ黒い土を懐中電灯で照らす。
「ここなんやな」
弘人からの返事はなかった。背中を蹴って地面に転がしておく。スコップで慎重に掘り進める。柔らかく、ここが最近掘り返されたことがわかる。
三十分ほどして、ガサリとスコップの先が触れた。青いシートに包まれたナニカだった。
端から覗く髪に、ゆるいウェーブがかかっている。臭気がひどく、中を確認する気は起きなかった。
しばらく見下ろした後、穴から出て腰掛け、土埃に塗れた手で煙草に火をつけた。
柔らかいとはいえ地面を掘るのは重労働で、全身に汗と疲労がこびりついている。
「俺なあ、お前に言われてから、今日まで誰も殴らんかったんやで」
穴に向かって話しかける。煙を上に吐き出す。
「浮気も、
短くなった煙草を、倒れている弘人の眼球に押し当てて消した。ぎゃっ、と叫んだ声は闇に吸い込まれて消えた。
穴に弘人を落とし、スコップを持ち直す。
賢一の暴力を窘めてくれる者は、もうこの世にいなかった。
渇望 惟風 @ifuw
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