少女と彼女の真名の芽吹き 1

 夜半からの晴天は、明け方を迎えてもそのままでいてくれた。

 昼になれば雪もだいぶ解かしてくれるだろう、気持ちのよい曙光しょこうに包まれて、セレノアスールの教区館は異状のさまていしている。


 教区館の敷地から海際までには短い幅の護岸道がある。ヒトが四人ほど横に並んで歩けば、はじの者は海に落ちてしまいそうになるほどに狭い道だ。まして、溶けはじめた積雪の今では、足元も格段に悪い。

 それだというのに、この道には押しつ押されつ、人々が詰めかけていた。

 隣や後ろ、前の者と口々にささやき合い、教区館の窓枠を見上げては、大師の名を呼び掛けている。

 すべて、セレノアスールの住人。

 このような事態にあるのも、未明のセレノアスールに「ラ行・伝声でんせい」が響き渡ったためである。


『ハマダリン大師は現在、不治ふちの病状の只中ただなかにある。これをなんとしても救済するため、明朝みょうちょう、教区館では一策を講じる。我こそと手を挙げるヤ行他奮たふんの魔名の者は、教区館に参集せよ。大師とセレノアスールのために助力いただきたい』。


 これのため、大師の窮状きゅうじょうを聞き知った住人のうち、ヤ行でない者らがこの海辺うみべみちに押し寄せてきたのだ。少しでも大師の近くにいて、成り行きを見届けたいと集まってきたのである。この騒ぎは、ヨ・ハマダリンの人気の裏返しと言ってよい。


 一方、募告ぼこくによりつどった他奮の魔名術者らは、人々が見上げる張り窓の奥、決して広いとは言えない大師の寝室で、こちらもひしめき合っていた。

 白外套がいとうの教会員だけではない。出漁しゅつりょうを取り止めてきた漁師。急いで出てきたのか、料理道具を片手にもったままの婦人。杖をついた老女。果ては、幾人か子どもの姿もあり、とおにも満たないだろう男児などは鼻息を荒くして腕を回している。


「失礼します」

「します!」


 人いきれの寝室に、少女とクミの姿が現れる。

 戸口から見渡したふたりは、中庸ちゅうような広さの室内に思った以上にヒトがいるのと、他奮術者らからいっせいに注目を浴びたことに目を丸くしたが、すぐに姿勢を正すと、室へと足を踏み入れた。

 そんなふたりへ、寝台のうえからはハマダリン大師が微笑をくれる。


「やあ、いい顔になった。短い間だが、よく眠れたようだな」


 寝台の傍までやってきて、美名は「はい」とうなずいて返す。


「『安気あんき』と『微睡まどろみ』の幻燈げんとうをかけてもらえたので」

「そうか。は? 終えてきたかい?」


 これにも美名は、「はい」と頷いた。


。ほかの劫奪こうだつ術と同じで、『ワ行・物貰ものもらい』の術も、奪ったモノを……、

「オーケイ。それならよし」

は……、いかがでしたか?」


 丸椅子に腰をかけず、立ったままだった美名は、周囲を素早く見渡す。

 他奮の者たちに快哉かいさいと言い切れるものはなく、ハマダリンの様子にも大きな好転が見られないことからすれば、答えが判り切った、空しい問いであるとの自覚が少女にはある。

 美名の察しを肯定こうていするように、大師は力無く笑う。

 

「我ながら情けないことだ。あらためて、これだけ多くのともがらから他奮術をもらったというのに、なんの快方もきざしていない」

「……私の目からは、昨夜からずっと、大師様はシャンとなさっているように見えます」

「気を張っているだけだ。それももう、長くはちそうにない」


 弱音のような言葉に、大師の衰弱を垣間見た気もする美名。

 だが、ハマダリンはすぐさま元のとおりに威儀を正すと、「いいか?」と厳しい顔つきになる。


「危ないと少しでも感じたらすぐに術を解くんだ。そうして、躊躇ためらったり、気に病む必要もない。私の旅路を、誠実な新任大師を巻き込み、魔名返上に至らせた悪道あくどうにだけは落としてくれるな」


 少女は無言で頷く。

 

「では、始めよう、と言いたいところだが……」


 言葉を濁すと、ハマダリンは硝子がらす窓へと顔を向ける。

 その窓からは、朝日とともに、がやがやとざわめく喧騒が絶えず入り込んできている。大師の身の上を案じ、集まって来たセレノアスールの住人ら。

 

「こうもうるさいと集中できないだろう、美名?」

「え……? あ、いえ……」


 少女の返答を待たず、ハマダリンは寝台から立ち上がった。

 聞いていたところによれば、大師は寝台から起きるのも辛くなっていたはず。今、少女が目の当たりにしても、その立ち上がる姿は緩慢かんまんで、すぐにでも倒れ込んでしまいそうである。

 しかし、少女や他の者らが差し伸べようとする手を制し、ゆっくりと歩み出すと、ハマダリンは窓際まで進んだ。実に遅々ちちとした歩みだったが、ひとりで辿りついた。

 窓を開け放ち、姿を見せたハマダリン大師に、集まる住人らは一気に沸いた。

 曙光の日差しもあり、眩しげに目を細めながら彼らを見下ろすハマダリンは、このときばかりは、と背筋を伸ばし、大きく息を吸いこむ――。


静粛せいしゅくに!」


 大師の一声は、群衆の騒ぎをぴたりと止めた。数千に及ぼうかという人々の喧騒を、波の音がはっきりと聴こえるほどに静まり返らせた。

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