波導の少女と風韻の魔名術 2

 雑木ぞうきの中を風が吹くように、美名は走る。

 モモノ大師の言ではないが、いくつもの野を駆けてきた美名にとっては、この福城近郊の林はヒトの手もいくらか入っているのであろう、をした、走りやすいものであった。


「ニクラッ!」


 前方に見定めたままの、「景色に溶けこむようなヒトの形の歪み」。

 「歪み」は揺さぶりをかけているのであろう、時折、右や左に進路を変えてくる。だが、鋭敏な感覚はすかさずに「歪み」を捉え直し、美名は追跡する。


(あくまでも、逃げようっていうのね!)


 相手は魔名術を使用しながら、というのを差し引いても、林野を駆けることにおいては美名の方に分があるのは確実のようだった。

 「歪み」までの距離は、じりじりと縮まってきている。


「逃げきれないわよ!」


 迫りながらの美名の恫喝どうかつのためか――先行く「歪み」の足元から、駆け音が聴こえ始めた。「歪み」の端々で薄皮ががれるように、ニクラの姿が見え始めて来た。

 波導はどうの魔名術がほころんできている――。


「はぁ、はぁッ……。……まったく! 野生児ね!」

「観念しなさい!」


 あと数歩分ほどの距離まで迫った頃、魔名術を完全に解いたのか、ニクラは突然に全身を露わにし、立ち止まった。

 美名も距離を保ったところで足を止める。

 場所は、土肌をさらす崖に挟まれた、天然の隘路あいろ。足元には小さな水流があることから、雨天や雪解けで水嵩みずかさが増した際に侵食して出来たのようである。


「はぁ……、はぁ……。ふぅ……」

「……投降して」

「……まだ言う?」


 肩で息をしながら、ニクラは振り返る。美名に視線を流してフッと笑うと、額に浮かぶ汗を指先で拭う。

 それから彼女は、大きく深呼吸した。


「……追いかけっこは……終わりにしましょうか」

「……それは、投降するってことね?」

「……しつこいわね。……こういうことよ」


 だいだい髪の少女は美名に向かって両の手のひらを差し向ける。


「魔名術ッ?!」

「ラ行・風韻ふういんッ!」


 詠唱は、美名には未知の魔名術であった。

 「かさがたな」の切先を前方に向け、美名は身構える。


(まさか、『雷の力』ッ?!)


 しかし、ニクラの手のひらからは、稲光いなびかりが走るわけでも、ましてや「カ行・焔柱ほむらばしら」が放たれるでもなかった。

 

「不発……?」

「そんなわけないでしょ」


 ニクラが言い放った直後――。


「ッ?!」


 美名は不意に、前方からの「圧」に襲われた。


「うぅッ?! か、風ッ?!」


 雷の力でも、炎でも、氷でもない。

 「圧力」とも言うべき「風韻」の魔名術を受けて、美名はそれを「風」と感じた。構えていた「嵩ね刀」の切先でち裂かれたため、「風」は美名には直撃していない。

 だが、腕をひしぐようにのしかかる重み。ジリッと身体が退げられる衝撃。隘路の土肌が削られ、後方に吹き飛ばされていく様。

 「風」の威力は尋常ではない――が。


(耐えきれないほどじゃない!)


 うろ蜥蜴とかげの「絶息ぜっそくれい息吹いぶき」に比較してみれば、こごえるような冷感を伴うでもなく、さらされたのも一瞬だけ。

 「風」は美名の身体を抜け、一本道を過ぎ去っていった。


(「風韻」……。波導が風を操るなんて、聞いたことがないけど……)


 「波」を操る魔名、ラ行。「カ行動力どうりき」と並び、魔名術の応用に富むものである。しかし、その応用範囲に「風」はない。

 未知の魔名術ではあるが、なんてことはないと、美名が少し拍子抜けしたとき――。


キッキィイン


「ッ?!」


 なんとも言い知れぬ異音が、辺りに響いた。


(何、この音……?!)


 今までに美名が聴いたこともない音質。心中をざわつかせるような不快音。

 だが、これも一時いっときのもので、である。

 何かが飛び向かってくるでもなく、「ハ行去来きょらい」の魔名術のように何かが消えたわけでもない。

 しかし、美名はニクラの表情を見咎みとがめめた。

 彼女はわらっていた。

 「風韻」の魔名術――「風」と「異音」を難なくやり過ごした美名を眺めて、口の端を吊り上げて笑っていた。

 その余裕の笑みに、美名はイヤな汗をかく。


(何か……あるの……? 「ラ行・風韻」の魔名術……)


 波導のニクラに気味の悪いものを感じた美名は、刀を差し向ける警戒態勢のまま、ふところに手を入れようとした。

 煙草けむりぐさを取ろうとしているのだ。

 先ほど狼煙のろしを上げた場所からこの隘路まで、だいぶ離れてしまっている。

 伝えてはいないが、主に明良向けに――「野暮用」とやらが済めばモモノ大師向けにも、居場所を報せるために上げている狼煙である。念のため、美名は二本目の狼煙を上げておこうと考えたのだ。

 しかし、彼女の手は


「あ……れ?」


 次の瞬間には、美名の天地は

 変わらず、ニクラに対峙して立っているつもりである。「嵩ね刀」を構え、切先を向けているはずである。

 しかし、実際の美名の身体は、


(なに、なにコレ……?!)


 目まいがする。どことなく、胸も気持ちが悪い。


「……どう? 『風韻』を受けてのご感想は?」


 歪む美名の視界に、嗤うニクラの顔が割り込んでくる。

 なんとか体勢を整えようと腕や足は動いてはいるようだが、地面に触れる感覚も、踏む感覚も、何も得られない――。


「……しばらくは体中の感覚が滅茶苦茶になってて、まともに動けないよ。今の君から逃げきるのはカンタンだろうけど……仕方ない」


 橙髪の少女は勝ち誇るように言うと、美名の眼前に、小刀の抜き身をさらした。


「君を、ここで殺す」

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