名を呼ばれる幸福と名を呼ぶ幸福

「……あ、おかえり。クミ……」


 自分たちの「穴室あなむろ」に戻って来たクミとミルザとを認めると、美名は迎える言葉を寄越した。

 ふたりの児童に付き合って、石灰石で部屋の岩肌に書き遊びをしていたらしい。

 だが、その小さな声音。浮かない顔。

 彼女はいまだ、胸に釈然としないものを抱えたままのようである。


「言ってきたわよ、美名! クメン様、『名づけ』てくれるってさ!」

 

 「名づけ師」の名を聞くと、美名は瞬きをする。

 その顔色の変化から窺うに、どうやら、憧れていた者の具体的な名が出てきたことで、彼女にも少しばかりは興味が現れはじめたようであった。


「クメン様……?」

「そうよ、クメン様がいらっしゃってたのよ。もう、すんごいカッコいいんだから!」

「『次代じだいのクメン』様が……」


 美名の両脇で、「えぇ~」と不満の主張をするふたりの子。


「美名ちゃん、ダメだって!」

「美名ちゃんも、悪いヤツになっちゃうんだよ」


(悪いヤツ……。ミルザも……)


 クミは、隣の女児を見上げる。

 声を大きくして美名には訴えないようだが、口を尖らせたその様子から、彼女も彼女で美名の「名づけ」には反対のようである。

 そんな彼女との先ほどの対話を、クミは思い起こした。


(……この子たちは、魔名教の神様を『悪いヤツ』と信じてて、そのせいで『十行じゅうぎょうの魔名』を嫌ってるってわけね……)


 クミは「よし」と大声を上げる。

 小さな愛玩あいがんのその大きな声に、美名をはじめ、子どもたちも一斉に彼女に注目する。


「行くわよ!」

「……クミ?」

「いく~?」

「どこか遊びに行くの~?」


 子どもたちと美名とを見渡し、クミはヒゲ毛をピンと張った。


「『未名みな』の子――サタナの妹の部屋に行くわよ!」

「え……?」

「せっかく『名づけ』てもらえるっていうのに、モヤモヤしたまんまじゃ嬉しくないでしょ! あの子も、美名も、笑って『名づけ』てもらうのよ!」


 そう言って、クミは「穴室」をトコトコと出て行く。

 美名たち以下、一同はポカンとしながらも、ひとまず、黒毛の先行者のあとを追って「穴室」を出た。


「……クミ、どうするって言うの?」


 薄暗がりの洞穴を歩きながら、美名は前を行く友人にたずねる。


「説得する!」

「説得ぅ……?」

「そう!」


 横穴から出て、「児童窟じどうくつ」の広間を抜け、ふたたび横穴に入る。

 「未名の子」専用の「穴室あなむろ」を目指し歩く、ぞろぞろとした列。

 まもなく、一行は目的地に到着した。


「あ、サタナ……」


 室内には、子どもがふたり。

 姿が見えなかった男児――サタナは、ずっと妹に付き添っていたらしい。

 その甲斐があったのか、「未名」の妹は布団から出てきてはいた。だが、寝台にもたれかかるようにして座り込み、すんすんと鼻を鳴らしている。


「……こんばんは!」


 ずかずかと「穴室あなむろ」に遠慮なく入っていき、クミは少し大仰おおぎょうな調子で挨拶の声を上げた。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃ――いや、闖入アヤカムに、サタナとその妹とは目を丸くしてクミを見る。

 おくれて、美名たちもおずおずと入室してくる。子どもばかりとはいえ、この人数では小さな「穴室」は満杯になってしまった。


「私はクミよ! あなたのお名前は?」


 小さなネコは、小さな女児の顔を見上げながら訊ねる。

 目を真っ赤にさせ、頬を紅くさせ、涙の筋をいくつも残した顔。四、五歳ほどの女児は、今のこの状況もつかめていない様子で、力無く首を振るばかりだった。

 クミは女児のぎゅっと結ばれた手に、自身の手を添える。


「名前が……、魔名を貰うのがイヤなのね?」


 女児は、コクンと小さく頷く。


「……神様は悪いヤツだから、そんな神様と一緒の名前なんて、イヤなのね?」


 女児は、これにもうんと頷く。

 ここサガンカでは――少なくとも、子どもたちの間ではやはり、そういう信仰なのだと、クミは改めて納得する。


(私は……、魔名教を否定するつもりはない。いろんな信仰の形があっていいと思う。でも……)


「でも、私は……あなたを何て呼べばいい?」


 このクミの問いに、女児はハッとしたように顔を上げた。

 クリクリとしていて、けれど今は紅くなっていて、そんな目を大きく見開き、何度も瞬きをする。


「ねえ、教えて? 私はあなたを何て呼べばいいのかな……?」

「み……、『未名みな』……」


 小さなクミは、ゆっくりと首を振った。


「……それは、あなたの名前じゃないわ」


 肉球でふわふわと女児の肌をさすって、ささやいた。


「私はあなたを呼びたいの。こんなに可愛らしいあなたを、『あなた』とか『未名』じゃなくて、あなただけの名前で呼んであげたいの」

 

 クミは女児の手をギュッと握りながら、背後の美名を見上げた。

 銀髪の少女は瞳を少し潤ませ、ふたりを見守ってくれている。


「このお姉ちゃんは、『美名みな』っていうお名前。名前がない、『未名みな』とは違うよ? そういうお名前。悪い神様の名前じゃなくて、このお姉ちゃんだけの名前、『美名』っていうの……」

「……」


 クミは女児に目を戻す。


「……私は、『クミ』。あなたと同じ……いえ、それよりもずっと小さい頃から、『クミ』って呼ばれてきた、私だけの名前。このふたつの音だけで、私は私が呼ばれたことが判る。同じ世界に生きるヒトに、私のことを判ってもらえたんだって、嬉しくなる」

「……」

「私もこのお姉ちゃんも、神様の名前はついてないよ。私がさっき会ってきた『名づけ師』様は、悪いヒトじゃないわ。あなたのその気持ちをちゃんと教えたら、このお姉ちゃんと同じで、神様の名前はついてない、あなたの名前だけをきっと授けてくれるわ」

「……」

「……クミ。『仮名かな』ってこと……?」


 美名の問いに、クミは少しだけ顔を後ろに向けて小さく頷いた。


(そういう「名づけ」の形があってもいいと、私は思う……)


 女児は目を丸くして、「ホント?」と、か細い声を出した。


「……悪いヤツに、ワタシはならないって、ホント?」


 「ホントよ」とネコは、力強く頷きを返す。


「『名づけ師』様は、悪い名前をつけるんじゃないの。皆に幸せになってほしいから名前をつけてくれるの。あなたの気持ちをちゃんと伝えたら、幸せな名前をくれるの。私も一緒にお願いするわ。だから、教えて? 皆に呼んでもらいたい、あなただけのお名前……」

「……ワタシ……、お兄ちゃんといっしょのオトがいい……」

「一緒の音?」


 女児はこくりと頷く。


「はじめに『サ』が、いい……」

「そっかぁ。いいね、お揃いの音……。他にはあるかな?」

「『マミムメモ』のどれかも……。カワイイから……」

「そっか、そっかぁ……。うん。伝えようね。全部お話しよう。そうしたら、『名づけ師』様はあなたにピッタリの、カワイイ名前をつけてくれるわ」

「……ホント?」

「ホントよ~。黒いネコは、ウソつかないんだから~」


 女児の泣き顔に、日が差した。美名よりも深い、愛らしいえくぼができた。

 きっとこの子は素敵な名前を貰うことができる。

 自分で望んだ名と共に、素敵な旅路を行く。

 クミはそう思った。



「……ありがとね、クミ」


 自分たちの「穴室」に戻る洞穴の道の中、美名は肩に乗る小さな友人に、礼を述べた。


「……ン? 何が?」

「ぜぇ~んぶ、全部だよ」

 

 美名の声音は、今にも踊り出しそうなほどに軽い。


「……クミは、私の名づけ師様。私の旅路の導き手。大事な大事な、可愛いともがら~♪」

「なによ、もう。調子出てきちゃって……」

「……私の小さなお母さ~ん♪」

「それはちょっとヤメテ……。美名くらい大きい子どもがいたとしたら、私のトシが……」

「あはは」


 ふんと鼻を鳴らしながらも、少女が元気を取り戻した様子に、自身も胸が軽くなったクミであった。

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