真名神代伝

劫奪者と使役者 ２

「幾旅（いくたび）の斬（ざん）ッ！」

　明良は去来の大師に向け、「幾旅金」の剣閃を飛ばす。

　連なる白刃の光は、シアラ大師が平手を軽く振っただけですべて消えてなくなっていく。

（去来（きょらい）魔名術……！　一対一で、こちらが近接武器のみであれば、「何処（いずこ）か」に消し飛ばすことで全て無効化できる、厄介な魔名……。しかも、相手はその術の筆頭、「大師」ッ！　だが……）

「アキラさん。できれば、おとなしく掴まって欲しいのですが。執務室内で暴れられると、書棚や本に傷がつかないとも限らない」

　シアラ大師は腰を落とし、拳撃を見舞おうとでもいうように構える。

　書に囲まれた執務室で、黒髪の少年と赤髪の大師とは構え合って睨（にら）みを交わす――。

（……俺の背後を取ったのに平手で掴みかかってきたこと、それにこの構え……。「生き物」を「何処（いずこ）か」に飛ばすためには、直接に平手で触れなければならないのは、「大師」であっても同じなようだ……）

　明良は少しだけ息を吐く。

　去来の術者は守りに長けるが、攻め手には欠けるというのは知られている。明良の思う通りで、直接的な接触でなければ、対する生物を「何処か」の領域に捕らえることはできない。主な攻撃手段はそれしかない。

　しかし――。

（おそらく去来魔名術の類（たぐい）だろうが、さきほどの瞬間的な移動……。もともとの身のこなし……。平手に触れなければといって、一筋縄ではいかない相手なのは、間違いない……！）

　去来の大師の身が、少しだけ沈む。

　次の瞬間には平手を突き出し、相手は飛びかかってきた。

（早いッ！）

「斬（ざん）ッ！」

　明良は後方に跳び避けながら、刀を薙（な）ぎ斬る。

　だが、剣閃は空を切っていく。

（消えたッ？！）

「あまり後ろに下がりすぎないでください」

　左方からの声に、咄嗟（とっさ）に跳（と）び退（の）く明良。

　数寸（すうすん）先を、大師の平手の爪先（つまさき）がかすめていった。

「……書棚を倒したら、戻すのが手間になります」

「ほざけッ！　幾旅の斬ッ！」

　明良が放ったいくつもの剣撃は、何もない空間を斬り抜けるのみ。

　大師の長躯（ちょうく）は、またも前触れもなく消え去っていた。

（ヤツの本を気にしている様子、棚を左にしてるこの位置なら……）

「後ろだぁッ！」

　振り向きざま、後方に横払いで白刃を流す明良。

「ッ？！」

　放った瞬間には何もない空間であったが、直後、突然に姿を現した去来の大師。

　彼は迫り来ていた剣閃に驚いたように一瞬だけ目を瞠（みは）ったが――。

「ハ行・収撃（しゅうげき）！」

　大師が平手を振るうと、「幾旅金」の剣撃は全て消失する。

「……今のは少しだけ、焦りました」

「本なぞに執着していると、命取りになるぞ……！」

「なるほど、出る場所を読まれましたか。では、気にしないことにします」

　言うと、シアラ大師はふたたび明良に飛びかかる。

　右、左、またも右と、乱打するように平手を迫らせて来る。

　明良も後ろに跳びながら、それらを避けていく――だが、あまりにも危険な平手の矢継ぎ早（ばや）に、黒髪の少年には反撃する暇がない。

（ただの平手が、こうも厄介だとは！）

　そうこうしているうちに、明良の背は大窓の壁についてしまった。

「ッ？！」

「貰いますッ！」

　大師の左の手のひらが、黒髪の少年に目掛けて来る。

「クソォッ！」

　明良は避けなかった。

　避ける代わりに、前に跳んだ。大師の懐（ふところ）に向かって。

「うッ？！」

　シアラ大師の平手は空を切り、明良は相手の胴体に絡みついた。

「うおおおぉおぉおっ！！」

　跳びついた勢いのまま、明良は大師の身体ごと、壁際の棚に突っ込んだ。

　書棚の中身が、ふたりの身体に被さり落ちて来る。

　埃（ほこり）が舞い上がる中、明良の身体だけが乱雑な本の山から飛び出す。

「斬ッ！　斬ッ！　斬ッ！！」

　放たれる斬撃により、書棚が、本が、細切れになっていく。

　だが、その山の下で、大師の身体が細切れになっている様子はない。

「ああ……。『居坂（いさか）大陸図版』の原本をメッタ斬りにしてしまって……」

「……クッ？！」

　背後に振り向くと、室の中央、白外套衣に埃をいくらか被っているものの、泰然（たいぜん）としてシアラ大師の姿があった。目線は明良の奥、明良が斬り裂いた本の山に向けられ、残念そうに顔をしかめている。

　そうして、まるで明良を咎（とが）める教師のような目線をくれると、大師は後ろ手を組んだ。それもまるで、叱責（しっせき）する教師の姿勢のようである。

「……ハ行・縮間（しゅっかん）」

（詠唱……？）

　明良は、不意に悪寒を感じた。

　眼で捉えたわけではない。

　自らの左右から、何かが迫ってくるのを鋭敏に感じ取ったのだ。

　咄嗟（とっさ）に、黒髪の少年は空（くう）に跳んだ。

「クッ？！」

　眼下には、異様な光景があった。

　明良がいた場所、その左右から、腕が伸びてきていたのだ。着衣や平手の形から、去来の大師の腕であることは間違いない。

　大師の身体は前方数歩先だというのに、空中から、腕だけを明良に差し向けてきたのだ。

（こんなことも可能なのか？！　去来の筆頭は！）

「……さすがです。ちなみに、御弟子さんはこの方法で捕らえました」

「黙れ、外道（げどう）！」

「……非道（ひど）く印象が悪くなってしまいましたね。では、次の手はもっと嫌われてしまうでしょうか」

　シアラ大師の薄笑いを合図にしたかのように、明良の周囲は一変した。執務室の壁が消え、天井が消えたのだ。

　隣の室は書庫だろうか、筒抜けになり、頭上には暮色（ぼしょく）の空が仰げる。

　これが何を意味するか、明良は瞬時に悟った。

（足を掛けられる場所がない？！　宙（ちゅう）の俺は、いい的だッ！）

　危惧した直後には、すぐ下で、明良は例の悪寒を感じる。

　明良の落下を待ち構えるように、空中にシアラ大師の平手が出現したのだ。

「空を舞う動力（どうりき）術者でもなければ、この手で『何処（いずこ）か』の虜囚（りょしゅう）です」