角猪のアヤカムと水溜まり 2

 希畔きはんの町は混乱していた。

 人々が、騒然として右に左に流れて行く。

 鐘の音の中には、遠く、泣き声のようなものも混じっている。

 屋台の並ぶ通りは、野菜が、果物が、路上に散らばり転がっていた。

 明良が希畔の地に腰を落ち着けて以来、警鐘が鳴るのは初めてのことである。威厳満ちて、かつ穏やかな大師の号令がなかった町中まちなかでは、この騒乱もむ無しか、と彼は歯噛みした。


「戸を閉めて家屋かおくこもれ! 危急ききゅうの時だ! 見知らぬともがらだろうが誰だろうが、入れてやるんだ!」


 シアラ大師に及ぼうが及ぼまいが、明良は避難を呼び掛けながら駆けた。


 焼き煉瓦れんがの囲いべい。希畔の町を取り巻く塀である。

 明良はその塀に設けられている、北口の大門を抜けた。

 抜けたところは、造りが統一された、狭小きょうしょうで階層建ての家々が並ぶ区画である。この辺りで屋外にいる者はまだ事態の把握が追いつかず、どこか所在なげに当惑している様子なのが多かった。

 明良はまたひとつ避難指示を叫ぶと、北東方面の空に目を遣る。


(……鳥が飛び立っている。空の低い所で土煙が起こってる……。あっちだ!)


 家々の隙間を縫うように駆けると、開けたところに出た。

 視界の奥に向かってゆっくりと下がるような麦畑と、その先にある林。

 その林の上空では明良が認めたとおり、土煙が巻き上がって拡がっている。

 その端緒が、見る間に近づいてきていた。

 角猪の群れが、こちらを――希畔の町を真っ直ぐに目指しているのは明らかだった。


「……なんだ! 貴様は?!」


 収穫時期が近い麦畑は、青々として丈がある。

 その中に紛れるようにしていた数十のヒトの頭のひとつが、突然に現れた少年の姿を見とがめた。


「何をしている?! この場にはもうもなく、アヤカムが大量に来るぞ! 早く町の中に避難しろ!」


 金属製の仮面かめんかぶとが怒鳴った。声音からするとその仮面の下は男であろう。

 付近の「紛れた者」たちのいくらかも、明良の方へと顔を向ける。この、魔名教会所属の警備役務えきむ者――「守衛手しゅえいしゅ」たちは、防備のため、みなで同じ型の兜を身に着けているようだった。


助太刀すけだちだ! 大師から了承も貰っている!」

「なんだと?!」

手司しゅしッ! 来ます!」


 明良を最初に見とがめ、「守衛手しゅえいしゅ」の長である「手司」と呼ばれた兜姿は前方に向き直る。

 明良も目を遣ると、噴煙は林の切れ目に至る寸前であった。

 直後、黒い粒がひとつ、木々の間から飛び出す。

 その粒は林のあとのわずかな草原を一気に抜けて、麦の畑の中へと、すぐに姿を消してしまった。

 そして、その先頭に続いて林を脱け出て来る、黒粒が――。


「スゴい数だ……!」


 次々に姿を現し、次々に麦畑に突進してくる角猪の群れ。

 その数といえば、とても数えきれるものではない。黒く、とてつもなく大きな蛇が、林から畑へ、うねりながら迫り来るかのようである。

 地が震えるかのような響きも、明良の足元には感じられはじめた。


動力どうりき! 火を放てェ!」

「カ行・焔矢ほむらや!」


 守衛手しゅえいしゅ数名の詠唱の響きとともに、火の球が飛び行く。

 青々とした麦畑の林側に落ちたそれは、火種となって火勢を上げ出す。

 だが、角猪の群れに怖じる気配はない。

 黒い大蛇は、むしろ勢いづくようにして火の中に飛び込んでいく。


使役しえき! 麦穂むぎほを結べェ!」

「タ行・茎走けいばしりッ!」


 また別の魔名術者たちの詠唱のあと、麦の葉がざわざわと音を鳴らす。

 明良が遠く認めたところによると、「使役」された麦はそれぞれに茎を動かし、編み込みの「捕獲網」を形作っているようだ。

 しかし――。


「……ダメですッ! 突破されてます!」


 「使役」によるざわめきとは違う、角猪が勢いにまかせて麦をなぎ倒していく荒らあらしい音は、その「捕獲網」を易々やすやすと通過してきている。

 角猪の突進は止めきれていない。

 ヒトなど比べ物にならない走力を乗せた角猪の「一本角」の突撃は、鋭利な刃物同然なのである。


「クソッ! 使役と他奮たふんは後退! 前衛を支援しろッ!」 


 麦穂が鳴る音が、急速に近づいてくる。騒々しく、ざわめいて。

 次第に、角猪たちの猛々しい鼻息も聴こえてくるようになった。

 大蛇の頭は目前。

 明良は自らの背から、白刃を抜く。


「おい、お前?!」

「ちょっとキミ、下がりなさい!」


 退がって来た後衛役の守衛手たちと入れ替わるようにして、明良は麦畑に立ち入っていく。


「前衛、来るぞ! 『サ行・膂力りょりょく強化』!」


 「手司」が詠唱をする横を、明良は駆け抜けた。角猪の群れの、最も先端であろう麦のさざめきを目指して。


「キサマぁ! 死にに来たか!」

「無用な心配だ! 俺が死を選ぶことはないッ!」


 叫ぶ明良の目前、麦穂の並びが割れたかと思うと、いきり立つ角猪が姿を現した。

 「一本角」を突き付けるようにして、明良に一直線に向かい来る。

 黒髪の少年は目を見開き、怖じることなくアヤカムに対した。


ざんッ!」


 角猪が間合いに飛び込んだ直後、「幾旅金いくたびのかね」の切り上げはその猛獣を真っ二つに斬り裂いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る