角猪のアヤカムと水溜まり 1

「落ち着いてください」


 去来の大師、ホ・シアラの声が、にわかに騒がしくなりつつあった教会堂内において、ひときわ明瞭に響き渡る。

 穏やかな、しかし凄味も伴ったその声音で、場には沈静が戻った。


「……ただ今、物見ものみから報告がありました。現在、希畔きはんの町目掛けて『角猪つのしし』の大群が押し寄せてきているとのことです」


(『角猪』だと……?)


 聴衆は、またも少し色めきだった。

 「角猪」とは、明良あきらも幾度か対した経験のある、獰猛どうもうなアヤカムである。

 黒茶けた体毛に覆われた四つ足の獣。家畜である「豚」と似通った姿で、全高は大きいものでヒトの腰ほどである。大型の「豚」がそうであるようにこのアヤカムも気性が荒く、額に生える、鋭く尖った一本角を向けられての突進はあたりどころによっては絶命の危険も高い、脅威のアヤカムである。


(だが、『希畔』に『大群』とは……)


 希畔の町は「角猪」の棲息域としてはギリギリ西端にあたる。加えて、標高高い山の中腹あたりがこのアヤカムたちの生息圏であった。がない限り、低地の人里まで降りて来ることは珍しい。


(人為的なものか……? だとしたら、『使役しえき者』……)


「……目的は違いましたが、現在、希畔の守りは厚くしております。『守衛手』の全力を挙げてこれに対しますのでご安心ください」


 壇上のシアラ大師は、動揺で色めきだつ人々を諭すようにしている最中である。

 その大師に被せるように、「カン、カン」といった音がやおら響き始めた。どこか遠くでも同じように、木霊のように、カンカンと音が鳴っている。

 これは、希畔の町の住人、滞在者に向けて「非常事態」を報せる、「警鐘」である。

 警鐘の大音量にも勝る張り声で、大師は続ける。


「この教会堂を封鎖する、と申し上げたのは、念のため、『角猪』が町中に侵入した場合に備え、この施設を避難所とするためです。この堂は希畔でも有数の堅牢さです。家族が心配な方、住みいえが気になる方は今なら出て行かれても構いません。ですが、もう扉は閉じてしまいます。家に戻られても、『清鐘せいしょう』が鳴るまでは、決して外に出ないでください。家の中でも、できるだけ高く、土台のしっかりした場所におられますよう!」


 大師の言葉を受けて、教会堂内の人々はそれぞれに行動を開始した。

 堂に留まる者。

 駆け出ていく者。

 代わりのように、堂内に飛び込んでくる者。

 それでも大きな恐慌にはならずに粛々と行動している様は、大師の威風ある言葉の効果であろう。


「ひぇえ……。この前といい、今回といい、希畔は一体どうしちゃったのよ……」

「……ミンミはどうする?」

「私? 私は……ここに残るよ。下宿のおじさんおばさんが少し心配だけど……」

「そうか。じゃあ、じっとしてろ……」

「……ちょっと? 明良くん?」


 明良は立ち上がると、前方の講壇に向かっていった。

 眉根を険しく寄せ、人々のそれぞれの動きを見守っていた白外套衣の大師は、彼の接近に気が付いた様子で顔を向けた。


「……アキラさん。お誘いしたところにこんな変事が起きてしまい、申し訳ない」


 まず謝辞を述べると、去来の大師は声を潜め始めた。


「……偶然にしては時機が近い。ギアガンさんの仕業と考えられますか?」

「……ないだろうと思う。それよりは……」


 『使役者』と口をついて出そうになって、明良は踏みとどまった。


「……『それよりは』?」

「……いや、なんでもない。俺も迎撃に手を貸そう」


 去来大師は目をみはると、明良を見、彼の背の「幾旅金いくたびのかね」を見、頷いた。


「願ってもない申し出です。襲来は北東からです」

「北東……」


(俺のボロ小屋に近い方角だな……)


「……先行している『守衛手』の者が始めはとやかく言うかもしれませんが、アキラさんの実力を目の当たりにすれば問題ないでしょう。私も避難指示や指揮伝達のあと、向かうようにします。お願いいたします」

「承知した」


 明良は教会堂の出入り口へと身体を向け、足を運び出す。

 大師の「気を付けて」と憂う声を背に受け、ミンミの心配そうな視線を横にして、明良の歩調は駆けるようになっていった。

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