感謝

ちい。

感謝

 大学最後の大会、彼女は優勝確実と言われていた。今までの中で一番体のキレもよく、万全な体調で望んだ大会の決勝でまさかの敗北。呆然とマットにへたりこんで立ち上がることも出来なかった。


 しかし、彼女は泣かなかった。悔しくなかったのか?悲しくなかったのか?いや、もう彼女の心は折れていたのだ。ポキリと心の折れる音を聞いたのだ。


 厳しい練習を積んできた。今まで、どれだけ逃げ出そうとしたか、投げ出そうとしたか、しかしらそれをぐっと堪えて踏ん張って走り続けた16年間。夢を掴む最後の最後で、するりと彼女の指の間からすり抜けていく。


 審判が相手の手を高々と上げる様子を魂の抜けた様な目で見つめている。


 その様子を、小学一年生から高校三年までの間、彼女を育て支えてきた恩師とコーチが黙って観客席から見ていた。


 彼女は皆から慰めの声を掛けられながらも、一人になりたくて、競技場奥にあるベンチに腰掛けていると、恩師とコーチが彼女の元へやってきた。


 虚ろな目で二人を見上げる彼女に恩師が近づき手を差し伸べた。彼女は立ち上がりその手を両手で握ると、今までありがとうございましたと頭を深く深く下げて言った。


 その彼女の言葉に恩師は否定もせず、止めもしなかった。ただただ優しく彼女へ一言、声を掛けただけだった。


「お疲れ様、長い間よく頑張った」


 彼女の手を握る大きな掌。レスリングを始めた時に「よろしくお願いします」と握ったあの時から、早16年の歳月が流れていた。彼女の成長もあり、あの頃のように彼女の掌をすっぽりと包み込む程の大きさは無くなったが、温もりだけは変わらない。


 その言葉を聞いた彼女の目から大粒の涙が零れ落ちてきた。ぽろぽろと止まることなく流れている。


 彼女は大きな声で泣いた。どんな厳しい練習にも泣いたことの無い彼女が大きな声を出して子供のように泣いた。


 俯き泣きじゃくる彼女の頭にコーチがタオルを掛けてくれた。ずっと支え続けてくれた二人は黙って泣きじゃくる彼女を見守っている。


 二人は知っているのだ。彼女がどれだけの物を捨てて走り続けていたか。どれだけの事を我慢して打ち込んできたのかを。


 その彼女の心が折れ、現役選手として続けられる体力と技術を持つ彼女が競技生活を終える決心をした事を、二人は何も言わず受け入れてくれた。


 そして、彼女も恩師のその一言で救われた。自分がやってきた事を認められたと、初めて感じた。だから今まで何度も何度も我慢してきた感情を止める事が出来ずに涙が溢れ出たのだ。


 しばらく泣きじゃくっていた彼女は、もう一度、二人に頭を下げお礼を言った。彼女の顔はすっきりとしていた。完全に吹っ切れたのだろう。


「焼肉でも食べに行こうよ、監督の奢りで」


 コーチは彼女の頭を優しく撫でて言うと、監督は苦笑いをしながら、しょうがないなと頭をかいた。


 明るい笑い声が廊下に響く。彼女は、この二人に心から感謝している。鬼の様に厳しかった二人。でも、常に自分を支え続け、高校を卒業し、大学へと進んだ後も気にかけてくれていた。


 本当にありがとうございます。


 その言葉では足りない恩がある。彼女は前を歩く二人の背中に向かい、もう一度、深く頭を下げるのであった。

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