血(2)

 晴と出会って1年が経つ。その1年の間に、二郎は違和感を覚えることが多々あった。


 晴は、金銭のことに関して神経質だ。

 缶ジュース1本さえ奢られることを嫌い、飲食は全て割り勘だ。

 二郎としては、金を出したかった。自分の方が金を持っているし、こうやって毎月会ってくれる礼もしたかった。


 そんな晴の性格を知っているのに、引越しの費用を負担しようとしたのは、本当に心配だったからだ。彼と妹が安心して暮らせる町に行ってほしかった。


(どうして、そこまで頑なに拒むのだろう?)


 二郎には分からない。晴が過敏なのか、自分が愚鈍なのか。

 

 深い思考に落ちていた二郎を現実に戻したのは、遠くで響いた汽笛だった。

 汽車がこちらに向かって来ている。


「どうするのだ? まだ昼前だが、帰るのか?」


 梟が尋ねる。

 二郎は考えた。帰れば、楽だろう。この気まずい空気から逃げられるのだから。

 けれど今帰ったら、来月はもうここに来られない気がした。

 来月がダメなら、再来月はもっとダメだろう。


(今すぐに謝れば解決するのか? だけど……)


 やはり謝る理由が見つけられない。晴を理解しないうえでの謝罪など絶対に届かない。

 話し合うという選択肢もあるが、それも怖かった。話し合っても、なお、理解出来なかったら。その時はどうすればいい?



「……おい、クソガキ。もうお前から折れてやれ。次男坊は駄目だ。あれは〝友達〟を拗らせておる」


 梟が小声で伝えると、晴は金に染めた自身の髪をくしゃくしゃした。それから、つなぎのポケットにある煙草をもう一度取り出す。


「……あのさ」


 晴が口を開いた。同時に、ライターを着火させる。


(あ)


 火だ。


(火が……!)

「俺があんたから金を受け取らない理由ワケなんだけどさ……」


 二郎は、晴の声が聞こえなくなった。聴覚が鈍くなり、代わりに視覚に強く支配される。


 火。


 炎。


 狐の、炎––––。



 ただでさえグルグルとしていた頭に、最も思い出したくない過去が蘇る。

 目の前が、揺れた。


「おい、どうした!?」


 急に口元を押さえてふらついた二郎に、晴は素早く反応した。ライターと煙草をベンチに放り投げて、二郎の前に来る。


「気分悪いのか? 吐きそうか? ちょっと我慢しろよ。今朝買い物して、その時のレジ袋持ってるから。そこに吐け」


 晴がポケットを漁る。するとレジ袋と共に、別の物が出てきた。


「って、何だその汚い布は!?」


 梟が驚いたように言う。


「血で汚れているではないか! お前はまたチンピラと喧嘩でもしてきたのか!?」

「ちげーよ! 妹が転んだんだよ! 膝から血が出てたからタオルで拭いただけだ!」

「使用済みの布をポケットに入れるな! 不衛生か!」

「出かける直前で急いでたから仕方ねぇだろ!?」

(––––!)


 二郎の感覚器官のバランスが、再び崩れた。

 今度おかしくなったのは、嗅覚だった。それは、ついさっきの視覚とは比にならないほど強かった。だが、が違う。

 目眩を覚えるほどの支配をしてきた視覚とは違い、この嗅覚は全身の感覚を研ぎ澄まし、本能を呼び覚ましていく感じがした。


「……どうして?」


 感覚と本能が、脳をクリアにする。クリアになった脳は、重大な1つの疑問を生む。


「こんな……どうして」

「……は? 何なんだよ?」


 二郎の様子が変わったことに、晴は怪訝そうにする。


「匂い……」

「匂い?」

「そのタオルの、血の匂い」

「?」

「近衛の血の匂いがするんだ」


 晴と梟の瞳が見開いた。


「いや、匂いって……。意味分かんねーんだけど」

「君の妹さんが先月、初潮を迎えた時……。あの日も、同じ匂いを感じた」

「!」

「気のせいだと思っていた。勘違いだと……。けれど、今日もまた同じ匂いがする」


––––汽車が駅に着いた。



 

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