うざい(2)
「すまない! 花ちゃんが昼寝をしていて、その間に儂は10分ほど買い物に出掛けてしまったんだ……。そしたら、こんなことになってしまって!」
膝を崩して泣きながら話すのは、70代の老人。
晴と花が暮らすアパートの隣人だ。晴が二郎と会う日は、彼が花を預かってくれている。妻がいたが、去年の冬に亡くなったらしい。
晴についてきた二郎は、思わず口元を手で覆った。
六畳一間の家具が少ない部屋。窓際に敷かれた布団。シーツには
「あそこで花ちゃんは寝ていたんだ……」
「……。花はどこ?」
晴が尋ねると、老人は震える手で押し入れを指した。
「外に出る時、鍵はかけていたはずなんだが……あぁ、ちくしょう、なんて事だ! 全て儂の責任だ!」
老人の話によると。
買い物から帰ってきたら、赤く汚れた布団の上で、花が膝を抱えて座っていた。カタカタと全身を震わせて。
そして老人の顔を見るなり怯えて、押し入れの中に逃げた。
その際、花のスカートから––––
(妹さんはまだ10歳か11歳のはず……。そんな、まさか。いや、あり得ないことではないのか)
ここは10丁目だ。子供をそういう対象で見て、狙う者がいてもおかしくない。
二郎は晴に教えてもらった。この町で最も多い犯罪は強盗、次が誘拐、その次が強姦だと。
「……花? いるんだろ?」
押し入れに向かって、晴が声をかける。あらゆる感情を無理やりに抑えつけていることが窺える、異様に静かな声音だった。
「出てきてくれ。大丈夫だ。兄ちゃんが帰ってきたから」
返答は無いが、ガサッと物音がした。
それから数ミリ、数センチと、ゆっくり押し入れの戸が開いていく。
「お、おにいちゃっ……」
散々泣いたのだろう。少女の枯れた声に、二郎は耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
「立てるか? 小鳥遊先生も来てるから、診てもらおう」
「わ、わたし、ごめんなさい……!」
「何でお前が謝るんだよ。お前は悪くねぇ」
「で、でも!」
「待て、晴」
兄妹の会話を遮ったのは、布団の血を見ていた小鳥遊だった。彼女はすんすんと鼻を動かした後、花の前に座る。
「花ちゃん。〝
「「え!?」」
晴と老人が目を見開いた。
「血の匂いで分かる。あれは月経の匂いだ。花ちゃん、そうだろう?」
「う、うえええええん!!!!」
花が小鳥遊に抱きついた。
「そうなの! 私、とうとう生理が来ちゃった! どうしよう!」
「……って、花ぁぁぁぁ! お前、驚かせやがって!」
「そ、そうだったのか。儂はてっきり事件が起きたのかと……。婆さんが生きてくれてたら、生理だとすぐに分かったんだが……」
小鳥遊は花の頭を優しく撫でる。
「とりあえずお風呂に入ろうか。その間に私がいろいろと用意しておくよ」
「うぅ」
女性にしては背が高い小鳥遊が、小柄な花を抱き上げる。
花は気まずそうに晴を見た。
「……スカートとパンツと、お布団。汚して、ごめんなさい」
「いーから。さっさと行け」
「……新しいスカートとか……ナプキンとか……。これから、お金かかるよね。ごめんなさい」
「子供のくせにそんな心配すんな。ほら、早く行かねーとジャーマンスープレックス喰らわすぞ」
「子供に何て怖いこと言うの!?」
外開きのドアを壁にして、二郎は身を隠した。小鳥遊と花が隣室––––晴と花の部屋に入っていく。
(……あれ?)
ふわりと。
二郎の鼻腔を掠めたものがあった。
血の匂いだ。
小鳥遊が言う〝月経の匂い〟を二郎は知らない。
けれど二郎は、小鳥遊が知らないであろう特殊な匂いを捉えた。
(これは……
ほんの微かに、一瞬、それを感じたのだ。
(何故だ? ここには近衛家の者は僕しかいない。気のせいなのか?)
再度、老人の部屋に視線を戻す。老人は安堵の笑みを浮かべていた。
「あー、つかれた」
布団を確認しようか二郎が迷っていると、相変わらず無愛想な様子で晴がそう言った。ズカズカと歩いてきて、二郎の正面で止まる。
そして。
(っ!)
二郎の右肩に、額を乗せてきた。二郎は驚愕して固まる。
「良かった……。花が、無事で……」
晴が呟く。
恐らく涙は流していない。声音は震えていない。
しかし二郎には、晴が泣いているように見えた。さっきの花よりも、ずっと大声を出しているように思えた。
「……うん。本当に良かった」
だから、自然と彼を抱きしめたのだった。
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