八つ当たり(6)

 何か話さなければ。話題を考えていると、


「あんたの学校も今、夏休み?」


 晴から先に問いかけてきた。丸椅子に座ったまま、隣に立つ二郎を見上げてくる。


「……〝夏休み〟って、何?」


 二郎が問い返すと、晴が〝は?〟と首を傾げた。


「知らないんだ。僕は学校に行ったことがないから。そもそも、13丁目には学校自体が無い」

「マジで。じゃあ、どうやって勉強してんの」

「基本的には自宅で、大人が子供に教えている」

「ふーん。……夏休みっつーのは、7月から8月末までにある長い休みのことだよ」


 今は8月の下旬だ。ということは、さっきの子供たちは夏休みの最中らしい。


「学校に行ってないってことは、あんたは仕事してんの?」


 続いて投げかけられた質問に、二郎はギクリとした。


「桜郎は詳しく教えてくれなかったけど、近衛家ってたぶん貴族だろ? あんた、俺と同じ歳くらいだよな? もう貴族の仕事してんの?」


 二郎は、晴から目を逸らした。


「仕事はしていない……」

「え?」

「僕は……何もしていない」


 言い終えると、さらに気まずくなった。

 今の二郎は、本当に何もしていない。勉強も仕事も、狩りも。

 部屋に籠ってご飯を食べて、薬を飲んで、寝て。あとは本を読んだり、三郎や錦と話をするだけで、誰かの役に立つようなことは一切していないのだ。

改めて現実を認識すると、背筋にサッと冷たいものが走った。


「へー」


 晴が反応した。

 かと思えば、二郎の肩をポンと軽く叩いてくる。


「いいじゃん」


 視線を晴に戻すと、彼は笑っていた。誰もが美少年と呼ぶであろう顔に無邪気な笑みを携えている。


 そして。



「だって、それって毎日が夏休みじゃん?」



 と、続けた。


 二郎は一瞬、何と言われたのか、分からなかった。



「いやー、羨ましいわー。こっちは働いても働いてもらくにならない生活しているもんで。生まれた家が金持ちだと、人生イージーモードだな」


 しかし、晴が言葉を一文字紡ぐごとに、嫌でも知らされていく。


「いいね、勝ち組。きっとあんたは、前世でたくさん徳を積んだんだろうな。俺も次に生まれ変わったら、あんたみたいな人種になれるよう頑張って生きてくわー」


 この男の口は笑っているが、目が全く笑っていないことを。


 この男の声音は明るいが、1つ1つの音に含まれる響きが重たいことを。


 この男の〝無邪気〟な笑顔から滲み出る〝邪気〟を。



 唐突に、視覚と聴覚が閉ざされていく感覚がした。


 奥の部屋から聞こえていた小鳥遊や子供たちの騒がしい声が遮断され、晴が放つ言語だけが木霊する。院内の風景がぼやけて、晴の姿だけがくっきりと浮かび上がる。


 世界が彼だけに占められて、二郎はやっと理解した。


 今、自分は攻撃をされている。


 晴は二郎を〝羨ましい〟と言いながら、二郎を心底軽蔑けいべつし––––、侮辱しているのだ。


 サッと冷たかった体が、今度はカッと熱くなっていく。

 次いで頭の中がグルグルして、わけが分からなくて、気持ち悪くなって––––。





––––〝ドカッ!!〟






 気が付いた時には、二郎の視界から晴が消えていた。彼は丸椅子ごと倒れて、床に尻餅を着いていた。



「いってぇ……」


 晴が小さく呟く。二郎に張り飛ばされた左頬を、押さえていた。


「おい、急に手ぇ出すなよ。また唇切れ、」

「勝手なことをベラベラと……! お前に何が分かる!?」


 晴の発言を遮り、その胸ぐらを二郎は両手で掴んだ。



「お前の家が貧しいからって、僕に八つ当たりをするな!!」



 晴の表情から笑みが消えた。感情が読み取れない瞳で、二郎を見返してくる。


 しばし見合った後、二郎は晴を離した。

 手のひらは震えていた。晴を叩いた感触がまだ残っている。脈は異様に速くなっていて、動悸の音が鼓膜まで届くほどだ。


「……人間を殴ったのなんて、生まれて初めてだ……」


 無意識に独り言が出た。


 すると、晴が意外な行動を取った。二郎の震える右手首を掴み、顔を少しだけ近づけてきた。


 殴り返されると、二郎は思った。


 だけど晴が手をあげる様子は無かった。彼が動かしたのは手ではなく、唇。形の良い唇が静かにそっと開かれる。


 もしかして謝ってくれるのだろうか。そんな期待が微かに生まれる。


だけど実際は。




「初体験、おめでとう。おぼっちゃま」




 晴はそう言いながら、再びニッコリと笑ったのだった。さっきよりも深く、深く、美しい嘲笑で。


「お前たち、何をしている!?」


 小鳥遊が戻ってきた。彼女は晴と二郎の有り様を見ると、眉根を寄せた。


 二郎はいたたまれなくなって、考えるよりも先に、病院を飛び出していた。

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