昔話(2)
花が驚いて置き時計を見ると、いつの間にか針は14時を指していた。反射的に立ち上がり、返事をしながら障子を開ける。
そして直後、ギクリとした。
縁側には梟だけでなく、二郎もいた。
怪我をしてからずっと白い寝巻姿だったのに、今日は濃紺の着流しと羽織の姿に戻っていた。
二郎の自室から花の部屋はかなり離れている。ここまで歩けるほど元気になったのかと思ったが、よく見ると右手で杖をついている。まだ万全ではないらしい。
「二郎さま、どうしてここに?」
「……花が、いつもの時間になっても来なかったから」
「っ! 遅くなってすみません!」
毎日必ず行くと約束しているわけではないが、花はやはり反射で謝ってしまった。二郎は首を横に振る。
「謝らなくてもいい。君が体調でも崩しているのかと、心配になっただけだから」
「ありがとうございます。私は、元気です」
嘘をついた。
「そろそろお見舞いに行こうかとは思っていたんです。少し荷物の整理をしていたら、時間がかかってしまって」
〝整理〟という言葉に反応したのか、二郎の目が自然と花から部屋の中へと逸れた。すると彼の目線は、とある場所で止まった。
その先を追って、花は青ざめた。文机の上に手紙を置きっぱなしにしていた。
慌てたせいで片付けるのを忘れてしまったのだ。文机は障子のすぐ近くにあるので、あれが何の手紙なのか二郎にはすぐに分かっただろう。
「あ、えっと、たまたまお兄ちゃんの手紙が出てきたから、ちょっと見ていたんです」
また嘘を重ねる。
それから花は文机から手紙を取って、笑ってみせた。
「ほら見てください。お兄ちゃんって性格は荒っぽいのに、字は意外に丁寧なんですよ」
笑顔を崩さないことに意識を集中させる。
「もう……。一体どこに行っちゃったんでしょうね? いくら私のことが嫌いになったからって、手紙の一通くらい送ってくれてもいいのに。近衛家の方々に、こんなにお世話になっているんだから」
「……
「え?」
「晴殿は、君を完全に見捨てなかった。この家のことを教えて、君が生きていく場所を残して行った」
「……」
––––あれ?
花の口元が一瞬だけ引きつった。
二郎は励ましてくれているはずなのに、何故か花に全く響かなかった。
(違う)
純粋に二郎に感謝していた頃の自分なら、きっと嬉しかったのだろう。
(今の私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。私が聞きたいことは……)
「花?」
花の様子がおかしいことに気づいたのか、二郎が名前を呼んできた。必死に保っていた笑みが消え、彼の黒い瞳から逃げるように花は俯く。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません」
「……今日の君は、いつもの君と違う気がするけど」
「そんなことは……」
「何かあったのか?」
花は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
空から鳥の鳴き声が一度聞こえたのを最後に音がなくなり、2人の間に沈黙が訪れる。
何秒が過ぎただろうか。
「……無理に話さなくてもいいよ」
やがて二郎の方から静寂を終わらせた。
「だけど僕に出来ることがあるのなら、教えてほしい。君の話なら、僕は何でも聞くから」
花がハッとして顔を上げた時、二郎はもうそこにはいなかった。彼は花のそばから離れて、廊下の向こうへと歩き始めていた。
(……よかった)
小さく息を吐く。今日はもう二郎に会わないだろう。少し危なかったけど、今日も本心を隠せた。やり過ごせた。昨日と一昨日とその前の日のように。
––––でもそこで、花はふと思った。
(明日は?)
あさっては? その次の日は?
(これからもこんな気持ちで、あの人のそばにいるの?)
内心で疑いながら、表では偽の笑顔を作って?
途端に、全身に寒気が走った。廊下をゆっくりと進む二郎の後ろ姿にさっきは安心したくせに、一転して焦りが襲い始める。
(二郎さま……!)
初めて好きになった男の人。
(……お兄ちゃん!)
この世で唯一の家族。
2人は花の世界の中心にいる人たちだ。彼らを疑わなければならない世界で、明日もあさってもその次の日も、ずっと、自分は動けずにいるのだろうか。
(イヤ)
花は無意識に、二郎に手を伸ばした。
(そんなのイヤ)
手紙の文末に書かれた〝さようなら〟の5文字が脳裏をよぎる。
〝さようなら〟なんて嫌だ。
自分はもう二度と、兄を見失いたくない。
兄を知って、理解したいのだ。
(待って)
もしも。
あの人の中に、自分が知らない兄がいるのなら––––。
「行かないで! お兄ちゃん!!」
遠くなりかけていた背中に向かって、花は叫んだ。
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