目覚め(2)

(やった、やった! 明日も会える!)


 体が嘘みたいに軽い。

 あれほど食べ物を受け付けなかったのに、途端にお腹が空いてきた。


 走りたくなる衝動と、頬が緩みそうになるのを堪えて、花は進んでいく。


 しかし長い廊下の途中、とある物を見つけ、立ち止まった。


 鏡だ。

 壁に、四角い鏡が掛けられていた。


 そこに映る自分の顔は、泣いたせいで真っ赤になっていた。



––––〝僕が怪我をするたびに、そうやって泣いている子がいた〟




(……その子って、錦さんのことね)


 直感で思う。

 彼女で間違いないだろう。


「私は何も望まない。そばに置いてくれるだけでいいの」


 鏡に向かって小さく呟いた。

 心臓の辺りがキュッと痛んだけど、無視をする。


(そばにいたら、私もいつか見られるかな? あの人が笑った顔を)



––––〝ワタクシは聞いたことがあるのです。二郎さまは笑う時に、着物の袖で口元を隠す癖があるらしいですよ〟


(……あれ?)


不意に、思った。



、聞いたんだろう?)



1つ疑問が生まれると、別の疑問を思い出す。


二郎が起きた喜びで忘れていたが、花にはずっと不思議だったことがある。


狐が兄を狙っていた原因が、分からない。


狐は二郎にしか興味がないはずなのに。


狐の逆鱗に触れたものは何なのか?


「狐が怒ること……。狐が嫌いなもの……。何だろう?

二郎さまが大切にしているもの、とか……?」



––––〝この家では、12歳の夏の夜に笑った〟



(〝この家では〟? じゃあ、この家の外だと、もっと笑ったことがあるの? そこはどこ? 誰かと一緒にいたの?)


 花はハッと息を呑んだ。


(……ま、待って)


 自分の思考なのに、止められない。心が追いつかないまま、花の世界でいろいろなものが線になって、勝手に繋がっていく。


 火傷を負い、火を嫌う二郎。


 煙草をやめた兄。


 そして、手紙。


 兄が、あの人に自分を託した理由。


(二郎さまが大切に思っている相手って、お兄ちゃん……?)


 だから狐に狙われた?


(〝家の外〟って、10丁目のこと? あの2人は10丁目で会っていた?)


 それも1度ではなく、何度も。


 相手の〝癖〟を知るくらい、何度も、何度も。


(そうだとしたら、どうして私に何も教えてくれないの?)


 これまで得た情報だけでは真実は描けない。線は歪な形になって、花に疑念を刻みつけてくる。


 目眩がした。思わず壁に手をつく。

 鏡の中の自分が不安そうに見返していた。





 花が去った後、二郎は梟に告げた。


「花は、貴重な〝補助の血〟の持ち主だった」

「唐突にものすごい真実を明かしてきましたね」

「直に兄さんたちが来るから、手短てみじかに話したい」

「ご安心を。二郎さまの言葉の足りなさには慣れております故」


 梟は一呼吸置いて、口を開いた。


「なるほど。補助の血とは、強き血をさらに強くする特別な血……。何やかんやと経緯があって、おニ人の血で狸を倒したのですね。しかし花さんの様子からすると、恐らく自分の力に気づいてはいないでしょう。どうされるのですか? そのような特殊な血だと、いずれは誰かにバレるはず。そうなる前に、貴方さまと花さんが兄妹であると打ち明けるのですか?」

「貴方は話が早くて助かる」

「この3年で培ったスキルでございます」


 二郎は立った。

 壁側まで行き、大きな丸窓を開ける。視界いっぱいに広がる竹林がザワザワと揺れていた。風が運んでくる新鮮な空気を吸って、吐く。


「僕は、花を〝妹〟だと思ったことは無かった。父さんの子だと知っても、実感がわかなかった」


 違う母親から産まれて、ずっと離れて暮らしていた少女は、もはや他人と同じだった。


 だが、自分の血と花の血が交わった瞬間。


 この少女が〝妹〟なのだと、認識した。


 たった一瞬で〝他人〟が〝家族〟へと変わったあの劇的な感覚を、どう言葉で表せばいいのか二郎は分からなかった。


「……花さんに話すのですか?」

「それは……」

「もし話すとするなら、は隠しておいた方がいいかと」


 窓に添えた二郎の手がピクリとした。


「二郎さまはかつて、花さん。……花さんが知れば、深く傷つきます」


 梟が言い終えると同時に、ドアをノックする音が聞こえ、会話は途絶えた。

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