目覚め(1)

「「二郎さまが起きたんですか!?」」


 花と紡の声が重なる。


「えぇ、ついさっき」


 柔和な顔つきの老医は頷く。


「元気ですか!?」

「お話しできますか!?」

「元気というほど回復はしておりませんが、会話は可能ですよ」


 少女たちに言ったのは老医ではなく、彼の後ろから出てきた使い魔だった。姿や大きさはつばめに似ていて、キリッとした女性の声をしている。


「面会も出来ます。しかしまずは血縁が近い方々……当主さまと弟さまを先に呼ぶべきかと」

「……っ! じゃあ私が呼んできます!」


 紡は悲しそうに眉を下げたが、すぐに真珠麻呂を抱えて走り出した。

 老医師も治療に使っていた木箱を幾つも持って、燕と共に廊下の向こうへ歩いて行く。


 花は、再び閉ざされたドアの前に立った。



(親戚の紡さんでさえ、すぐに会えないなら……他人の私が二郎さまの顔を見られるのは、いつなの?)



 ドアの表面に額をくっつける。

 この1枚の向こうにいるのに。


「二郎さま……」


 苦しくて、呟いた直後のことだった。


 花の視界がぐらついた。

 さらに、誰かに背中を押されたように、体が前へ傾いていく。


「え? え!?」


 何が起こっているのか分からないうちに、額からドアの感触が消えた。代わりに、ドアに比べたらずっと柔らかいけれど、硬いものにぶつかる。


 慌てて顔を上げると、真っ黒な瞳がこちらを見下ろしていた。


「っ! 二郎さ、」


 その名前を最後まで呼ぶ前に、花は前方へ思いっきり倒れた。


(えっと……?)


 花の脳内で、状況が整理されていく。


 内開きのドアを、二郎が部屋の中から開けた→だから自分はバランスを崩した→二郎の胸にもたれかかる形になった→そのまま一緒に転んだ→…………。


 花はサッと青ざめる。

 飛び起きて、自分の下敷きになっていた二郎から退いた。


「すみません!! 頭、大丈夫ですか!?」


 花を受け止めて転倒したので、後頭部や背中を畳で打っただろう。なので心配して言ったのだが、何だか頭がおかしい人に対する言い方みたいになった。


 二郎が無言で起き上がる。

 次の瞬間、


「きゃっ!?」

「花は大丈夫か?」


 二郎は、花の両肩をやや強く掴んできた。近い距離にドキリとする。


「怪我は? 狐に何かされなかったか?」

「わ、私は平気です! ほら、手の怪我も治っていますし!」


 両の手のひらを広げて見せる花。 右も左も無傷であることを確かめると、二郎は梟に目を向けた。


「貴方は無事なのか? 兄さんは? 三郎は? 他のみんなは? 町は?」


 矢継ぎ早に問う姿は、花の胸を締めつけた。


 久しぶりに聞く声は、風邪を引いた時みたいに枯れている。

 普段は顔の右側だけに巻かれた包帯が、今は首や腕にも見られる。きっと白い寝巻きに隠れた部分にも、たくさんあるだろう。


「ご安心を。町は少々壊れましたが、怪我人も死人も出ておりません。貴方さまのご家族も、朧さんも歌丸さんたちも無事です」


 花の隣で、梟が答えた。


「……本当に?」

「えぇ。皆、ちゃんと生きています」

「…………そうか。生きているのか……」


 二郎は花をそっと離した。

 それから、寝巻きの袖で口元を隠す。

 その行動を花は特に何とも思わなかったが、梟は呆れたように嘆息した。


「……二郎さま。こんな時くらい、笑った顔を隠さなくともよいではありませんか」

「え!?」


 花は目を丸くする。


「今、笑ってたんですか!?」

「はい。皆さまの無事を知り、安堵したのです」


 花は急いで梟から二郎へ目線を移す。ーーが、すでに彼はいつもの無表情だった。


「ワタクシは聞いたことがあるのです。二郎さまは笑う時に、着物の袖で口元を隠す癖があるらしいですよ。……はぁ、悲しゅうございます。貴方さまに仕えて約3年も経つのに、ワタクシは笑顔を見た記憶がありません」

「……僕も、ときどきは笑う」

「爺やにそのような嘘は通用しませんぞ」

「嘘じゃない。この家では、12歳の夏の夜に笑った」

「12歳って、9年前ではありませんか!? それは〝ときどき〟というレベルではありません! というより、12歳の夏の夜に何があったのですか!?」

「あの日は、確か…………。花?」


 話そうとした矢先、二郎は花の変化に気づいた。


 花は、泣いていた。


 声を出さず、両目からポロポロ零れ落ちる涙を拭くこともなく、ただただ二郎を見つめている。


「花」

「よかった……っ」


 止まっていた時間が動き始めたように、花の体は震える。


「二郎さまが生きていて、よかったぁ……!」


 怖かった。


 兄のようにいなくなるかもしれないと思ったら、眠れないほど怖かった。


(ちゃんと戻ってきてくれた)


 話している。

 動いている。

 名前を呼んでくれている。

 生きている。


 嬉しい。

 嬉しくてたまらない。


 目覚めるのを待っていた3日間、雪のように降り積もっていた恐怖が一気に解けて、温かな気持ちとなって全身を流れている。



(〝人が生きている〟って、こんなにスゴイことだったんだ……!)


 想いは嗚咽になって、どれも言葉にならない。


 それでも、伝わったのだろう。


 ぽん、と頭に温もりを感じた。

 花がずっと求めていた体温だ。細い指が髪に触れるたび、瞼の裏はますます熱くなっていく。


「……昔、僕が怪我をするたびに、そうやって泣いている子がいた」


 二郎はもう片方の手で、花の頬を拭う。


「自分のために泣いてくれる人がいるのは、いつになっても嬉しいことだね。……ありがとう。目が覚めてよかった。君にまた会えてよかった」


 そう言う彼の表情は、〝笑顔〟とは程遠い。


 けれど、枯れて話しづらそうな声を、振り絞るように発している。

 おさまらない涙をずっと受け止め続ける指先は、優しくて心地よい。


 笑わなくても口数が少なくても、二郎から与えられる確かな〝幸福〟を、花は感じ取っていた。

彼の〝命〟を尊びながら。



 出来るなら、今日はずっとそばにいたい。密かに望むが、そろそろ花はこの部屋から出なければならない。一郎と三郎がやって来るからだ。


 今度は花の方から、二郎の腕を離した。


「私、自分の部屋に戻ります」

「……分かった」

「あの、明日もお見舞いに来ていいですか?」

「いいよ」



 待ってる。



 続けられた返事に、花は微笑んだ。

 ドアを開け、お辞儀をして、静かに閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る