部屋の前(前)
「あの子、もう3日もあそこに座っているわよ」
「ご飯もあまり食べていないんでしょう? 大丈夫なのかしら」
「梟さまがそばにいるから心配ないと思うけれど……」
近衛屋敷の中にある長い廊下で、使用人たちは囁き合った。薄暗い場所だった。壁に窓は無く、ほんのり輝く行灯が等間隔に置かれている。廊下をずっと奥まで進んでいくと、突き当たりにようやく1つのドアが現れる。
二郎の部屋だった。
3日前に狸を討った直後、二郎は倒れた。意識はまだ戻らない。
花は二郎の部屋の前で、彼を待っていた。冷たい床に座り、膝を抱え、医師たちが出入りしているのを、不安な面持ちで眺めている。
「花さん。一口でも食べてください」
隣にいる梟が言う。狸に深い傷を負わされたが、梟は無事だった。しかし羽の部分は痛むらしく、おにぎりと漬物が乗ったお盆を指す動きは鈍い。
「……大丈夫です」
花は首を横に振る。ほとんど飲まず食わずなのに、乾きも飢えも感じていなかった。
(あの人がこのまま眠っていたらどうしよう)
そんな恐ろしい思いに、喉も胃も心も支配されているのだ。
花は部屋のドアから、自分の右手に視線を移す。
二郎も梟もあんなに傷ついたのに、花は無傷だった。手から血を流したはずだが、目が覚めた時には傷跡すら残っていなかった。
(私、あの日のことをよく覚えていない)
狐は、花の兄を殺そうとしていた。
それを知った花は、狐の頬を叩いた。
あの時の狐は心底驚いたというような顔をしていた。それから三郎に刀で刺されて、狐は白い霧となって消えた。
(その後はどうなったの?)
ハッキリと覚えているのは、2つの感情。
二郎の力になりたい、彼を愛しているという気持ちだ。時間が経ってもこの思いは消えていない。
「あぁ! また食べてない!」
突如、静かな空間に可愛らしい声がした。花が顔を上げると、この3日間ですっかり顔馴染みになった者たちが来ていた。
1人は、彼岸花のような真っ赤な髪を、高い位置でお団子に結んだ半妖の少女。色とりどりの水風船が描かれた紺色の甚平を着ており、活発そうな印象を与える。年齢は花よりも上で、10代後半。
そしてもう片方は、少女の右の
「
花は、少女と猿の名前を順番に口にする。
紡と呼ばれた赤髪の少女は、花の前にある物を降ろした。お
「もう! 貴女が何にも食べやしないから、みんな困ってるんですからね」
「すみません……」
「食べ物を無駄にしたらバチが当たるんだから」
紡の言葉に反応したのか、猿の真珠麻呂がお盆からおにぎりを取った。
『じゃあ、オレ、これ食う』
甲高い声を出して、パクッと食べる。花が数時間も放置していたので米が乾燥しているはずだが、真珠麻呂は2個目にも手を伸ばした。
一方で紡は透明のビニール手袋を着けて、新しいおにぎりを作り始める。彼女の役割は、花に食事を持ってくることだった。
「……二郎さまはどうですか?」
と、紡は尋ねてきた。
「昨日と変わりません」
梟が答えると、紡の動きが一瞬だけ止まった。さらに、くっきりとした二重の瞼がわずかに下がる。
米粒がくっついた指を舐めながら、真珠麻呂は紡を見上げた。
『つむぐ、辛いか?』
「へ、平気よ! 7年前に狐に殺されかけた時だって、二郎さまは無事に帰ってきたもの! 10日も寝込んだけれど、ちゃんと起きたんだから!」
『ウソ。つむぐは、本心では心配でたまらない。つむぐは、二郎が好きだから』
「なっ!!」
ぐしゃっ–−と。
形が整いかけていたおにぎりが崩れた。
「な、なななな何言ってるのよ!? 梟さんも花さんも信じないでくださいね?
『紡は子供の頃、屋敷で狐に襲われた。そしたら二郎が助けてくれた。それも嬉しかったけど、もっと嬉しかったのは、二郎が紡の名前を覚えていてくれたこと。ほとんど喋ったことないのに。だから好きになった』
「勝手に語らないで私のエピソ––ドォォォォ!!」
紡は誤魔化すように、おにぎりを再び作り始めた。
「本当に違うんですからね!? そりゃ好きか嫌いかと訊かれたら、す、好きですけど! でもおにぎりの具にいろいろ種類があるように、〝好き〟の意味合いにもいろいろありまして……!」
(お、お皿に並ぶおにぎりが、全部ハートの形になっている……!?)
器用だなぁと、花は感心する。見れば、紡の顔は濃く染まっていた。彼女の髪と同じ色になっている。
そこで理解した。紡は使用人ではなく、一族の者だ。それなのに食事係をしているのは、二郎の部屋に近づきたいからなのだ。3食運べば、彼の様子を3回確認できる。
「あ、今の話は内緒ですよ? 誤解されたら、たまりませんから! ……二郎さまには、錦さんという婚約者がいるんだから」
紡が言うと、花は胸の辺りが重たくなった。
(あの2人は、いつ結婚するのかしら?)
目が覚めた時?
狐を倒した時?
(……ううん。いつでもかまわないわ。私が恋を出来るのも、失恋が出来るのも、二郎さまが生きているからよ)
どうか早く起きてほしい。
あの静かな声音で名前を呼んでほしい。
細い手で、頭をぽんぽんってしてほしい。
花がそう祈っていると、
『きゃ––––っ!!』
真珠麻呂が乙女のような悲鳴をあげた。そのうえ紡の後ろに隠れてしまうので、花は慌てた。
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