部屋の前(後)

「どうしたの? 真珠麻呂さん」

『む! 人間のくせに、馴れ馴れしくオレの真名しんめいを呼ぶな! 〝マシュちゃん〟と呼べ!』

「え? あ、ごめんなさい。マシュちゃん、急に叫んで何があったの?」

『鬼! 鬼みたいな男が来たぞ!』


 真珠麻呂と同じ方向を見て、花は〝あっ〟と呟いた。

 暗い廊下の向こうから現れたのは怖い鬼……ではなく、長身に洋装を纏い、眼鏡をかけた男––––近衛一郎だった。


「……紡。猿の躾をしておけ。声がやかましい」

「は、はい! 申し訳ありません!」


 紡が頭をぺこぺこ下げる。


「弟の様子は?」

「えっと、まだ眠っているようです」

「そうか」


 一郎と紡の会話が途切れると、花は急いで口を開いた。


「あの、今回は本当に申し訳ありませんでした! 私のせいで、大変なことになって!」


 狸は花を食べたくて騒動を起こした。自分さえいなければと、花は思い悩んでいた。ずっと謝りたかったけれど、事後処理で忙しかった一郎に会えずにいた。


 一郎は花をじっと見下ろしたまま、何も言わなかった。

代わりに〝音〟で答える。二郎の部屋のドアを軽く叩いた音だった。


「悪いのは、この中で寝ている奴だ」


 花はギョッとした。


「違います! 二郎さまは悪くありません!」

「こいつは狸を信じすぎた。……7年前、狸が弟を救ったことは事実だが、私は狸に感謝などしていなかった。たとえ家族の命を救われたとしても、心を許してはならない。狸や狐はそういう連中だ。この弟はみすみす信じ、狸を野放しにしたまま、お前を町に出した」

「町で働きたいと言い出したのは私です! 二郎さまはワガママを聞いてくれたんです!」


 言いながら、手が震えた。頭はどんどん熱くなっていく。このままだと二郎だけが責められてしまう。


(力になりたいって、決めたばかりなのに……!)


 花は立ち上がって、一郎を真っ直ぐに見る。


「あの人は悪くないんです。お願いします、そんな風に言わないでください……っ」

「いいや、あいつが悪い。

「……え?」

、狸が悪い」


 眼鏡の奥の瞳は花ではなく、ドアへ向けられている。


「あのアホ狸が馬鹿な考えを起こさなければ、お前は普通に働くことが出来た。町は乱れなかった。町の者たちは日常を過ごせた」


 行灯から生まれる光と影で、神秘的な模様が浮かぶドアの表面。一郎はスッと手を離した。


「キッカケは弟、途中からは狸。––––そして最終的には、当主である私の責任だ。全ての責は私が負う」

「っ!」

「子供は余計なことを考えるな」


 一郎は部屋には入らずに、踵を返した。


(お兄ちゃん……!?)


 花は何故だか兄を思い出した。

 口調は冷たいのに、花を庇護するような物言い。そこに、兄を連想してしまったのだ。


「……そういえば」


 数歩進んだ先で、一郎が足を止めた。


「ここにいるのは、か?」


 その質問に花は首を傾げたが、紡はすぐに肯定した。


「はい。そうです」

「……そうか」


 返事を聞くと、一郎は去っていった。


「やっぱり当主さまも気になったのね」


 足音が完全になくなった頃に、紡が言った。


「気になったって、何をですか?」

「さぶ君……じゃなくて、三郎くんと錦さんのことよ! 1度お見舞いには来たけれど、それっきり姿を見せないわ。あの2人は昔から二郎さまにべったりだったのよ。狩りで怪我をしようものなら、どんな軽傷だって騒いでいたわ! 今の花さんと梟さんみたいに、二郎さまが元気になるまで部屋の前で待っていたのに。……何だか変ね!」


 ふと、花の脳裏に狐の言葉がよぎった。



––––〝三郎と錦が通じている〟。



 あれはどういう意味だったのか。


(紡さんなら意味を知っているかな? 訊いてみよう)


 花は決めて、話しかけようとした。

だが、



〝バタン〟



 唇を動かす寸前、部屋のドアが勢いよく開いた。


 花と紡があっけにとられていると、中から年老いた医師が出てくる。

 医師は少女たちの存在に気がつくと、慈悲深く微笑んだ。



「お待たせしました。お目覚めになられましたよ」




––––––––



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