いもうと(後)
瞼を開けると青空が見えた。
狸は自分の頭に触れてみた。
(あれまぁ)
右側の骨が割れて脳が出ていた。看板の矢印に抉られ、そのまま吹っ飛ばされたのだ。
土に叩きつけられた巨体をゆったりと起こした。片足と片腕を消失しているため、バランスを何度も崩しそうになる。
確認すると、場所は狭い空き地だった。 一面が
「……かはっ」
そして、吐血していた。看板を杖のようにして体を支え、随分と苦しげな息遣いをしている。
(はて? 治癒の力で回復したはずなのに、どうしたんだ?)
『一体、これは何なのですか?』
突然、どこからか低い声が聞こえた。しかし周囲には二郎しかいない。
『この男の血に、奇妙な血が混ざりました』
『こんな血は見たことがありません』
『狸の頭に、あれほどの深い傷を負わせるなんて……』
幼い少女、少年、高齢の女性。幅広い年代の声声が聞こえてくる。
『静かに』
重厚感のある男の声がした。すると飛び交っていた疑問がピタリと止まる。
「……くくく。今の渋い声、聞き覚えがあるねぇ」
『狸か。久しいな』
「お前はアレだね。名前が思い出せないが、近衛家の初代当主をやっていた男だ。確か幻惑術に長けていた」
狸は、血だらけの二郎を上から下まで見つめた。
「お前たちは皆、近衛の先祖だね? この声は、次男坊の
『いかにも。いつもは眠っておるが、おかしな血のせいで目が覚めてしまった』
「ご先祖さまの魂が脈々と体内に流れているのかい。本当に厄介な血だねぇ」
二郎が肩を大きく揺らし、激しく咳きこんだ。先ほどよりも多い量の血を吐き出している。
『……副反応かもしれぬ』
初代がそう言うと、狸は首を傾げた。
「副反応?」
『あぁ。何とか立っていられるのは、治癒の血を舐めたおかげだ』
「待て待て。どういうことだい?
『近衛の血には、幾つかの種類があることを知っているか』
「詳しくはないよ。俺は強い血にしか興味がないからね」
『この者のように攻撃に特化した血、治癒の力が宿る血、結界や幻術などを生み出す血。ーーあとは
狸は眉を顰めた。
「補助? そんな血を持った奴は見たことがないよ?」
『補助の血は極めて貴重で希少。100年に1人生まれるかどうかの確率と言われている。そしてその血を受けとめた者は強化の作用に耐えきれず、副反応を起こすことがある』
「…………」
『これは補助の血が混入した可能性が高い。喜ばしいことだ。血の持ち主は誰だ?』
「はは、悪いけど勘違いじゃないかねぇ? 確かに次男坊と血を混ぜ合わせた奴がいるが、そいつは近衛の人間ではない。外から来た
『……? 今の近衛家は、他人との接点を持っているのか?』
初代の問いかけに狸は頷く。
「そうさ。ある日いきなり13丁目にやって来た娘だ。次男坊が引き取ったんだよ。……ん?」
狸はハッとした。
「待てよ? 仮に娘が近衛の血を持っている可能性があるとすれば……。ま、まさか隠し子か!? 次男坊ってば婚約者がいるくせに他所で子供を作ってたのか!?」
『あぁ?』
『うちの子孫がそんなことするかよ』
『そもそも年齢が合わねぇだろ』
『殴るぞ』
「ちょっと初代さま!? 他の先祖たちの口が急に悪くなったよ!?」
『副反応かもしれぬ』
「いやこれは違うだろ! 無理やり庇うなよ!」
『……もしもお前の言うように隠し子がいたとなれば、父親は他の者であろう』
ぶわっと強い風が吹いて、ススキがざわついた。
『初代さま! 貴方まで何を』
『私とて考えたくはないが、狸の仮説は確かめねばならぬ』
憤る女性を遮り、初代は深い呼吸をした。
『近衛二郎。お前は全てを知っているな?』
次の瞬間、二郎の腕がピクリと動いた。
『話せ』
「……イヤ、だ……っ」
二郎は首を横に振る。
『話せ。娘は何者だ?』
「ーーーー」
ふっと魂が抜けたように、二郎の左目が
「……ほぉ、これは幻術かね? 死してなお使えるのかい?」
『効果は長くはないがな』
数秒の間を置いて、
「……母さんと父さんは、愛し合ってはいなかった」
二郎の口がぎこちなく開いた。
普段から無表情な男だが、いつも以上に人間らしさが失われており、まるで人形を喋らせているようだった。
「2人の間には家族愛はあっても、男女の愛は無かった」
『我らに必要なのは一族への忠誠と狐を倒すための覚悟。恋情は不要だ』
「……本当にそうなのですか?」
『何?』
「だって母さんがいなくなったのは、
『逃がしただと?』
「狩りの途中で行方不明になったと教えられていたけど……本当は父さんが〝解放〟した……」
不意に、二郎が自身の頬を殴った。無意識に術を解こうとしたようだが、痛々しい音が響いただけで、彼の左目は虚空のままだった。
「……ずっと昔から、母さんは屋敷に出入りしていた庭師と、恋をしていた。母さんは僕と同じで身体が弱くて、余命宣告を受けていて……。残された短い時間を、愛する者と生きさせてあげたかった」
『つまり桜郎は秘密裏に、妻と庭師の駆け落ちの手助けをしたと?』
〝馬鹿な!〟と先祖の誰かが叫んだ。
『〝狩りの最中に消えた〟というのは桜郎の嘘だったのか』
「……っ」
今度は腹を殴りつける。結果はさっきと同じだった。二郎は意に反して続きを話す。母が数ヶ月後に10丁目で亡くなっていたこと。母の遺体を荒らす輩から、母を守った女性の存在。それを機に、父と女性が出会ったこと。
「女性には、1人の息子がいた。貧しい暮らしをしている親子を、父さんは段々と気にかけるようになって……。外へ視察に出かけた合間に、彼らの様子を見に行くようになった。……それから……それから、」
二郎は唇を結んだ。息さえ噛み殺し、まだ抗おうとしている。
けれど、もう答えはほとんど出ていた。
「その女性と桜郎の間に、隠し子が出来たのか」
誰も口に出来なかったことを、最初に言ったのは狸だった。
「あぁ、そうか、そうだったのか。つまり、あの娘の正体は」
お前の、
「だからお前は頑なに、娘の正体を明かさなかったのか。父と母が犯した〝罪〟を隠すために」
風が止み、ススキが擦れ合う音がスッと消えた。
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