そして花は咲いた(1)
「よく頑張ったねぇ」
狸は、足元にいる二郎に言った。
二郎はどこかの店の壁にもたれかかり、下を向いている。顔は見えないが、息の音は聞こえる。さっきまで激しく乱れていた息遣いは、だいぶ小さくなっていた。
「さすがは近衛家歴代の中で、最も強い力を待つ人間だ。でもそろそろ疲れただろう?」
狸も限界が近い。いくら痛め付けても抗う男を相手にしているうちに、左足を切られた。
その際、二郎の頭を咄嗟に鷲掴みにして、壁に叩きつけた。血まみれの顔面に直接触ったせいで、右腕まで消失した。巨体は傷だらけで、あちこちから黒い靄が出ている。
「へへ。体中が痛くて、熱くて、重たいや」
「……」
「返事も出来ないか? 今日はもう終わらせようか。しばらくおやすみ、次男坊」
狸が左腕を振り上げた、直後のことだった。
空気を裂くような乾いた音を耳にして、狸は反射的に後退った。
すると、自分が今までいた場所を小さな物が通過した。それは近くにある
(あれは銃の弾丸か)
誰の仕業だ?
狸は看板が建つ反対方向に目を遣る。
「……おやおや?」
「……!?」
数十メートル離れたところに立つ男に、狸と二郎は同時に驚いた。洋装姿で右手に銃を持ち、切れ長の瞳に鋭い眼光を宿した男は、
「当主さまじゃないの!」
近衛家当主、近衛一郎だった。
「意外! アンタが現れるなんて!」
「……兄さん? どうしてここに……?」
一郎は鬱陶しそうに口を開いた。
「一度に話しかけるな」
「くくく。さては弟のピンチを助けにきたのかい?」
「どちらかと言えば貴様が黙れ」
「え、ひどい……」
銃口を狸に向けて、一郎は弟を見る。
「造血剤を届けに来た。傷を治せ」
一郎の左腕からは血が垂れていた。点滴のようにゆっくりと落ちる血は、地面に着く寸前に赤色の
二郎は立ちあがろうとしたが、すぐに膝が崩れた。動かない足の代わりに口を大きく開いて、
「薬など要りません! 屋敷へ戻ってください!」
兄を拒絶した。
普段なら絶対に聞くことのない弟の大声を、一郎は鼻で笑う。
「まったく説得力のないザマだな」
「ここは危ないから……!」
「やかましい! これ以上、町を乱すな! さっさと回復して、そこのクソボケカス狸を始末しろ!!」
「このクソボケカス狸は1人で倒せます! だから逃げてください!」
「俺の悪口言いながら兄弟喧嘩するなよ」
ため息を吐く狸。
「当主さまよぉ。弟の言う通り、家に帰りな? 〝弱い者は狩りに連れて行くな〟と
「……」
「邪魔しないでくれ。俺はただ、娘を食いたいだけなんだ」
「帰るのは貴様の方だ。そいつが回復したら、手負いの貴様などすぐに殺されるぞ?」
「どうかな? こちら側には狐という味方もいるからね」
「その狐の姿が見えないようだが?」
「……」
狸は言い返さなかった。
実は狸も内心、ずっと気になっていたのだ。狐が戻ってこないことを。
(どうした? 人間の小娘を捕まえるだけなのに、何故こんなに時間がかかっている?)
(……三郎もいない。無事なのか?)
狐が娘を町へ連れ出し、それを末弟が追ったと報告を受けたが、どこにも見当たらない。
狸はニッと笑い、一郎は冷笑を浮かべた。お互いに本心は1ミリも表に出さない。
「随分と派手に暴れたな。ここまでして貴様が娘を狙う理由は?」
「そりゃあ、
「どういう意味だ」
狸は天を仰ぐような仕草をする。
「毎日忙しそうなアンタには分からないだろうねぇ。〝上級〟と呼ばれる妖の生が、どれほど退屈なものか。天敵はいない。恐怖も刺激も無い。長い寿命に与えられた、単調な日々。退屈で頭がおかしくなりそうな頃だったよ。ーー次男坊に会った」
直感した。こいつは特別だと。
「近衛桜郎が重宝する子供。成長すれば強くなる。俺や狐と対等になる。そんな人間は初めてだった。嬉しかったから、7年前に狐から助けた」
それなのに、と肩を落とす。
「とんだ期待外れだったよ。こいつ、屋敷に引きこもりやがった」
1年、2年、3年……。どんなに待っても、何も起こらない日が続いた。
「これほど強い力を待ちながら、父親の仇討ちもしない。アンタは怒りを覚えなかったのか? 俺は苛ついた。怒りを通り越して、いつしか興味を失った。存在さえ忘れかけていた頃だったよ。ーー外から奇妙な娘が来た!」
狸の語気が強くなった。
「しかも次男坊が狐の狩りを再び始めた! 俺は思った! この娘を使えば、楽しいことを起こせると!」
「お前……っ」
「次男坊よ! お前が数日後に目を覚ました時、娘は俺に食べられていることだろう!」
二郎が低い声を出したが、興奮した狸には聞こえていない。
「次は引きこもるなよ? 次は狂え! よく聞け、俺たちの妖力とお前の霊力は対等だ! 同じ力を持つ者同士の勝敗を決するものは何だと思う? それは〝運〟だ! 今回、俺には有って、お前には無かった! 俺には狐という協力者がいたけど、お前のそばには足手纏いしかいなかった! この先もお前は独りぼっちだ!」
「……っ!」
「ならば狂うしかなかろう? その甘い性格を捨て、どこまでも狂え! 弱い者は見捨てろ! もしくは利用しろ! 残酷な判断を出来る人間になれ! 運さえも屈服させるほどの狂気を纏って、俺を殺しに来い! 俺に刺激を与えるんだ! 今度こそ俺を楽しませろ!!」
再び銃の音がした。
さっきと同じ矢印型の看板に当たり、バタンと倒れた。
「勘違いするな。そいつは貴様の娯楽のためではなく、狐を殺すために生まれてきた」
自分を黙らせるように放たれた銃弾に、狸の視界が一郎へと戻る。
「我ら一族の〝罪〟を餌にする狐……。狐殺しは一族の悲願」
「……じゃあ尚更、こいつを狂わせようぜ? 次男坊は甘い。今のままだと勝てる戦も勝てねぇよ」
「断る。ただでさえ馬が合わないのに、これ以上おかしな奴にされてたまるか」
ポタリと、一郎の腕から血の滴が垂れた。新しい烏が生まれ落ちる。
「参ったねぇ。……俺の邪魔をするなら、アンタとて殺すぞ?」
二郎の手がピクリと動く。
「やめろ!」
「やれるものなら、やってみろ」
二郎と一郎は正反対の言葉を口にする。
狸が反応を示したのは、
「強気だねぇ」
一郎の言葉だった。
「今の俺はボロ雑巾みたいに弱ってるが、アンタを殺すのは簡単だぜ? 主が死ねば、烏たちも消滅する」
「舐めるなよ? この血の一滴でも、そいつのもとへ辿り着かせてみせる」
「兄さん!」
二郎が制止しても、一郎は氷のような笑みを湛えたまま、狸から視線を逸らさない。狸の方も、じっと見返した。
「……。アンタみたいな人間も初めてだ。俺に対して恐怖を抱いていない。アンタが優れているのは治癒の力だけで、俺よりずっと弱いはずなのに」
「私が恐れるのは貴様ではない。娘を失うことだ」
「は? 娘?」
「あぁ。その弟には、娘が必要らしいからな。……外部の者は嫌いだが、あの娘の存在がそいつを部屋から出したことは事実。故に、娘に死んでもらうわけにはいかない。狐殺しを成し遂げられるのは、そいつだけなのだから」
「…………ほう」
狸は呟いた。
「娘を救うことは、次男坊を救うことに繋がる。次男坊を救うことが、最終的に一族を救うことに繋がるってわけか」
「あぁ、そうだ」
「薬を届けるなんて、下っ端に命令すれば良かったのに、アンタ自身がわざわざ来た。俺が退屈を恐れるように、アンタは一族を失うことを恐れるのか」
「一族を守り、残すのが当主の務めだ」
「
「馬鹿が。私の代わりはいくらでもいる。残した者たちが近衛家を支える。残した者たちの命は、そいつが必ず守る。二郎の代わりはいない」
二郎と狸はハッとした。
それから、同じことを考えた。
〝7年前に似ている〟と。
狐に殺されそうになった二郎。
一族の希望を残すため、息子を守った桜郎。
父親の姿が一郎と重なる。
あの日の悲劇が繰り返されようとしている。
「アンタも……いや、当主さまも一族のために生まれてきたのか。気に入った。惚れたよ。故に、その覚悟に応えよう。当主さまは〝弱者〟ではなく、〝近衛家当主〟として、お相手させてもらう」
「……よく喋るボロ雑巾だな」
一郎が言うと、狸は笑った。
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