花めく(10)
「狸の鼻は便利でのう。人間の血肉を食えば、その人間と同じ血を持つ者を探すことが出来る。つまりお前を食えば、お前の近親者を見つけられるのじゃ」
「……それって、お兄ちゃんのこと?」
近親者と言われ、思い浮かぶのは1人しかいない。花の家族はこの世でたった1人だ。
狐がキョトンとした。
「〝お兄ちゃん〟だと? ということは男か? てっきり女かと思っていたが……」
「狸はお兄ちゃんを探しているの?」
「いや、待てよ。二郎のやつ、まさか男と通じていたわけではないだろうな……!?」
「教えて! 何でお兄ちゃんなの!? あと、さっきから言ってる〝通じている〟ってどういう意味なの!?」
「〝通じている〟という言葉の意味が通じてなかったんかい」
「狸とお兄ちゃんは関係無いでしょう!?」
「確かに無い。狸はただの暇つぶしでやっておるからな」
「暇つぶしって!」
「しかし我には関係が有る。二郎がお前の兄に関心を寄せている」
「……二郎さまが?」
「なるほど、合点がいった。あの元引きこもりがお前を気にかけるのは、そういうわけだったのか。二郎とお前の兄はたいそう仲が良いらしいな」
花はふと思い出した。
狐に顔を焼かれ、小さな火さえ嫌うようになったと言っていた二郎。
中毒のように吸っていた煙草を突然やめた兄。
(そんな、まさか……!)
「……殺してやる」
狐が呟いた。
「玩具を奪う者は許さない。狸がそいつを連れてきたら、絶対に殺してやる……!」
それは狐にとってはただの独り言だったが、
(……〝殺す〟?)
花にとっては、決して聞き流してはいけない発言だった。
(お兄ちゃんを、殺す?)
混乱していた頭がいきなり冷めた。不思議なほど心が静まり返る。
「……喋りすぎたな。もう戻らねば」
ナイフのように尖った小指の爪がぎらついた。それは人の目には見えない速度で花のそばに移動し、首筋を斜めに引っ掻く。薄い線が浮かび、じわりと血が滲む。
花の心臓がドクンと大きく、そして強く脈を打った。
「おとなしくついてこい。そうすればこれ以上の痛みは与えぬ」
「やめろおおおお!!!!」
三郎が刀を振るった。宙を真横に流れた刃先が狐の腹を斬る。
(……え?)
狐は、途端に激しい違和感を覚えた。
おかしい。
身体がおかしい。
三郎の弱々しい抵抗を嘲笑ってやろうとしたのに、違和感で体が強張る。
(これは、熱い……!?)
どこが? 腹か?
(違う。この三男坊に、我を傷つけられるほどの力は無い)
ハッと気づいた。
熱いのは三郎に刀で
(どういうことだ? この熱さはまるで)
あいつの血に触れた時に、似ている。
〝パシッ!〟
乾いた音がする。
狐は理解が追いつかなかった。上級の妖である自分が、たかが人間の小娘に右頬を叩かれたという事実に呆ける。
「殺させない」
「花……?」
「あなたたちに、私のお兄ちゃんと二郎さまは、絶対に渡さないわ……!」
狐は右頬をおさえた。
「あ、あ……!?」
熱かった。小指に感じる何倍もの熱が瞬く間に頬を襲う。
(熱い)
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!!!
足元がふらつき、数歩退く。ふらりと視界が揺れると、近くに建つ店の硝子に自分が映った。
狐の脳裏に7年前の光景が過ぎる。自分の狐火に顔を焼かれた人間。あの日の二郎もまったく同じ箇所を手で覆い、踠き、苦しんでいた。
「うああああああ!!!!」
三郎の絶叫と共に、腹部に再び衝撃を受ける。刀身のほとんどが腰から突き出るほど深く刺されていた。
「貴様……っ」
狐は何かを言おうとしたが、それより早くに白い霧となり、空気中に散っていった。
三郎は刀を地面に落とし、倒れるように座り込む。
「はぁ、はぁ……っ」
狐はこれくらいでは死なないが、気配は消えている。とりあえず窮地は脱したようだった。それでも三郎の呼吸と鼓動は一向におさまらず、むしろどんどん酷くなっていく。
「三郎さま」
恐る恐る振り返ると、花の手が見えた。
狐を叩いた左手は赤く染まっている。花は生花店の裏口から逃げる際に転び、腕に怪我をした。その血がまだ止まっていなかったらしい。
(……狐を追い払ったのは、僕の血ではない)
顔を上げて花と目を合わせると、ぞわりと肌が粟立った。
(僕は、どうして気づかなかったんだ)
今は包帯で隠れているが、兄の元々の顔立ちを三郎はよく覚えている。誰よりも兄のそばにいたからだ。
外部から来た少女を避けずに向き合っていたら、真っ先に気づいていただろうか。
この少女が持つ、懐かしい面影に。
改めてきちんと見てみれば、もはや顔立ちだけではなかった。
ところどころ破れた着物、少し乱れた髪の毛、傷を負った腕、真っ直ぐに見つめてくる静かな瞳。
「二郎兄さん……」
その佇まいの全てが、昔の兄だった。
狩りから帰ってきたばかりの兄と同じだった。
(あぁ、そんな……)
この子の正体は。
兄がこの子を引き取った理由は。
「すみません。私は二郎さまのところへ戻ります」
花は言った。声音には恐れも迷いも無い。
ついさっきまでは三郎の隣を不安そうに歩いていたのに。
「今度は、私が大切な人たちを守るの」
誓いのような響きを、三郎はうつろな様子で聞いていた。
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