花めく(7)
外に誰かいる。
二郎の言葉に、花は身を震わせた。
店のドアノブがまわる。扉がこちら側にゆっくりと開いていく。
「大丈夫だ。そこにいて」
二郎は持っていた
扉を開けた相手が現れるよりも、二郎がそこへ駆けつける方が早かった。隙間から影を掴み、引きずり込み、勢いのまま床に広がる花畑に押し倒した。衝撃で花びらは散り、蝶たちは逃げていく。壊れた柄杓の尖った先端を相手の首に当てたところで、二郎が静止した。
彼の下にいたのは、
「……三郎?」
「……兄さん?」
狸でも狐でもなく、三郎だった。
「お前、どうしてここにいるの?」
相手が弟だと分かったはずなのに柄杓を1ミリも離さない二郎に、三郎は緊張した面持ちになる。
「……狐は術で空間を歪ませ、あの子を町へ連れて行きました。だから後を追ったのです」
声を出すたびに、喉元に嫌な感触が走る。
「でも僕は別の場所に誘導されたようで、あの子の行方を探していました」
目だけを動かすと、赤い着物の少女が視界の端にギリギリ入った。
「……ご無事で何よりです」
「二郎さま!」
突如、花が怯えたように叫んだ。
「今日、狸は二郎さまの姿に化けて、歌丸さんを傷つけたんです!」
花が何を言いたいのか、三郎は瞬時に察した。
「なっ! 僕が偽者だと? 兄さんも疑うのですか!?」
兄から返事は無く、感情の読めない目線だけが降ってくる。
「ならば質問をしてください!」
「質問?」
「えぇ、僕しか答えられないことを尋ねてください」
「……」
数秒置いて、二郎は開口した。
「……僕は一郎兄さんによく怒られるけど、これまでの中で最も兄さんを怒らせた出来事は?」
花はギクリとした。
(それってまさか私のこと?)
花が初めて屋敷に来た日の、激昂した一郎を思い出す。〝追い出せ〟と二郎を激しく責めていた。
「子供の頃、虫嫌いの一郎兄さんに、二郎兄さんがカブトムシを目の前まで近づけた事件です。それも、廊下の出会い頭で」
(えーーっ!?)
三郎の返答に、二郎が柄杓を捨てた。
「……花、安心して。彼は本物の三郎だ」
(えーーーーっ!?)
無言で驚いている花に気付かず、三郎の体を起こす二郎。
「あの日はさすがに、二郎兄さんが家族の縁を切られるかと思いましたよ」
「……縁どころか、首を斬られるかと思った」
「よりにもよって一郎兄さんに見せるからです」
「大きいやつが獲れたから、誰かに見てもらいたかった。最初に会ったのがたまたま兄さんだった。相手は誰でもよかった……」
「そんな通り魔のような供述をされても……いや、こんな話をしている場合ではありません!」
三郎は腰の脇差に触れる。鞘から刀身を半分ほど抜くと、躊躇なく自らの腕を傷つけた。花が唖然としたのはここからだった。三郎が〝失礼します〟と言いながら、血が滲み出た箇所を、二郎の口に押し当てたのだ。まるで血液を飲ませるかのように。
「飲ませているのですよ」
花の疑問を読んだかのように、三郎は言う。
「これは他人の血だと無意味ですが、近衛の一族同士ならば輸血と似た行為になります。……と言っても僕の血も弱いので、あまり意味は成さないかもしれません。しかし余裕が無く、薬を持ってこられなかったので、せめて……」
そんなことが出来るのかと花は感心した。二郎の従姉妹であり、婚約者でもある女性をふと思い出す。
(錦さんの血も、二郎さまの力になれるんだ)
自分の手首を見つめる。傷口の出血はもうおさまっていた。
(……いいな)
三郎と錦が羨ましくなった。
「一郎兄さんが一族の者を連れて、町に取り残された者がいないか探しています。そして貴方に薬を届けようとしている。どうかこのままお待ち下さい」
「……」
「兄さん?」
「……時間が無いんだ」
「え?」
三郎が聞き返した時だった。
二郎が素早く三郎の脇差を奪った。それから三郎の腕を引いて再び地面に倒すと、ちょうど彼が立っていた場所に何かが飛び込んできた。正体が分からない物体は二郎に衝突する。
「二郎さま!」
「兄さん!」
それは人間の手だった。
手首から先が無いが、確かに白い肌と細い指を持つ手だ。手は、二郎の首を握り絞めている。
「……っ、狐の手だ。居場所がバレた」
微かに苦しそうな息を吐きながら、二郎は力ずくで手を剥がして扉の方へ投げた。手は壁にぶつかり、床に着地して、蜘蛛のように周辺を這い始める。
「……三郎、頼みがある」
「頼み……?」
「花を汽車に乗せたい」
「っ! 外に帰すのですか?」
「避難させるだけだよ」
二郎は刀身を鞘から全て抜いた。
「狸と狐はお前がここにいることを知らないはず。花を駅まで送ってくれないか? あいつらの注意はこちらに引きつける」
刀を弟に返し、自分は
「裏口から出て。花を送った後はすぐに屋敷に戻ってくれ」
「今回ばかりは兄さんだけでは無理です!」
「巻き込んでしまって、すまない」
「どうしてここで謝るのですか!? そんなもの求めていません!」
「もうすぐ奴らがやって来る。行って」
「兄さん!」
「……こんな状況だけど、お前と久しぶりに話せて良かった」
「……っ!」
会話が成り立っていない。二郎は自分が伝えたいことを言っているだけで、三郎の言葉を聞いていない。危険な場所から早く立ち去れと言わんばかりに。
花がいる水場のそばに、店の裏口がある。
三郎は立ち上がって花の元へ向かうと、小さな背中に手を添えた。
三郎が一歩踏み出せば、花の足も勝手に進んでしまう。
(嫌……)
貴方と離れたくない。
貴方を1人にしたくない。
私も貴方の力になりたい。
言いたいことはたくさんあるのに、
「二郎さま……っ」
花は名前しか呼べなかった。
二郎は花を見ない。狐の手から一切視線を逸らさない。
狐の手が草の上を蠢く不気味な響きを耳にしながら、花は外へ連れて行かれた。
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