花めく(6)
「も、もういいんです。私が出て行きます。遠いところに行きます。だから戦わないで」
嗚咽混じりで続ける。
「狐から聞きました。……私があの屋敷に住むことを許される条件として、二郎さまが狐を倒しに行っているって。私、そんなの全然知らなかった! 何も知らないでご飯を食べたり、勉強したり、働かせてもらったりして。こんなに大変なことになったのもぜんぶ、私のせいで」
両手で受け止められなくなった涙が
痛い。
転んだ傷だけでもこんなに痛いというのに。
(二郎さまはどれだけの傷を負って、どれくらいの血を流していたの?)
「花」
「私はもう、誰かの負担になりたくないんです……」
「……君を負担だと思ったことは一瞬たりとも無いよ」
二郎は首を横に振った。
「悪いのは僕だ。〝狸と狐に人道を求めるな〟と父から教えられたのに、狸を野放しにした。……僕は彼に恩義さえ感じていた。命を救われたから」
「……え?」
「昔、僕は狐に殺されそうになった」
言いながら、二郎は赤く汚れた包帯に触れる。
「この火傷は、狐の炎に焼かれたものだ」
「っ! もしかして、二郎さまが火を苦手な理由って」
「あぁ、これのせいだ。ーー瀕死だった僕を、狸は屋敷に連れ戻してくれた。父の遺体と一緒に」
「父の、遺体……?」
「父は助からなかった」
花は察した。二郎の父親は、全ての罪と寿命を狐に食い尽くされたのだと。
「狐は一族の
「……二郎さまが1人で倒すのですか?」
「〝弱い者は狩りへ連れていくな〟ーーこれが父の教えだから」
「で、でもたった1人なんて」
「狐を殺すことを命じられたのは僕だけだ」
「……三郎さまは、二郎さまの力になれないことを悔しがっていました」
弟の名前が出たからなのか、二郎の左目がわずかに動いた。
「……三郎には他に成すべきことが、たくさんある。錦も兄さんも、他の者たちもそうだ。だけど僕にやれることは1つしかない」
「1つ?」
「狐を倒すことだ。〝お前は狐を殺すために生まれてきた〟と、父にずっと教えられてきた」
「っ!」
花の心臓がドクンと波打った。
(だからこの人は、1人で狐の山に行くの?)
花の擦り傷を見た二郎は〝痛くないか?〟と訊いてくれた。初めて出会った日は、狸から命を救ってくれた。
(この人の怪我の痛みは誰が労ってくれるの? 危ない時は誰が助けてくれるの?)
もしも狐を殺したら、きっと誰もがこの人を褒め称えるのだろう。
でも狐に殺されたら、誰がその死に気付いてくれる?
その体は? 魂は? 狐の山に取り残される?
家に帰れず、家族にも会えないで。
「……二郎さまは、怖くないんですか?」
「え?」
「どうしても1人でなくてはならないんですか……?」
花の声と肩は震えていた。
「10丁目の人たちは力を合わせて、怖い人たちから仲間を守っていました。ケンカに慣れている人も、そうでない人も、役割がありました。そ、そんな風に、一族のみんなで戦う方法は無いんですか? 二郎さまが強いことは知っているけど、それでも私は……っ」
止まりかけていた涙が再びあふれてきた。
悔しかった。言いたいことの半分も伝えられていない。気持ちを上手く言葉に変えられない。
「……何故、君は泣くの?」
二郎が問う。
「こ、怖いから。二郎さまが1人で危ないところへ行くのが怖いから」
「何故、君が怖がるの?」
「私、二郎さまのことが大好きだから」
「ーーっ」
「だ、大好きなんです。こんなに好きなのに、もしも貴方の身に何かあったら……、そう思うと怖くてたまらないから!」
不意に。
出血でぼんやりした二郎の脳が、懐かしい記憶を呼び覚ました。
〝1人って怖くねぇの?〟
〝無茶振りだって。
〝なぁ、絶対に死ぬなよ。俺も生き延びるから〟
荒れ果てた廃墟の中で、
「……君たちは、似ている」
二郎が呟いたが、あまりに小声だったので花には聞こえなかった。
水場の隣に引っ掛けられた
二郎が柄杓を傾けると、冷たい水が傷口を撫でるように優しく流れていった。
「……父さんも昔は、みんなで協力して狩りをしていたらしい」
新しい水をすくいながら、二郎は話し始めた。
「父さんは変わってしまった。親戚のジジ様やババ様の話によると、僕の母が死んだせいなのだと聞いた」
「っ! お母さまが……?」
父親だけでなく、母親も亡くなっていたことに花は驚いた。
コクリと二郎は頷く。
「僕が5歳の時だった。狐ではない別の妖を狩るために、父さんと母さんは町外れに向かった。……だけど狩りの途中に母さんだけが行方不明になって、3ヶ月後に遺体で見つかった。発見された場所は10丁目だった」
「10丁目!? どうしてあの町に?」
「僕も詳しくは聞かされていない」
さらに驚く。どうして貴族の女性が、月城町で最も貧しい町で死んだのだろう。
「父さんと母さんは夫婦であったけど、仲の良い姉と弟でもあった。……その事件以降、父さんは弱い者を危険な場所に行かせなくなった。家族を失うことを、恐れるようになったのかもしれない。でもこれは周囲の推測であって、父さんの本当の気持ちは分からない。あの人とはあまり話をしなかったから」
「……」
「ただ、父さんの教えは守ろうと思う。僕も家族を危険な目に遭わせたくはない」
「二郎さま」
「僕は死なない。必ず迎えに行く。約束する」
「……」
「……ありがとう、花」
会話が途切れた。
水が砂利に落ち、跳ねる音がする。
手首の傷口がキレイになったら、二郎は花を駅へ連れて行くだろう。
(本当にそれでいいの?)
花は、ふと疑問を覚えた。
(このまま13丁目を出て行ってもいいの? )
ほんの数分前までは正しいと言い聞かせていたことに、今は違和感があった。
洗い流されていく自分の血をじっと見つめていると、
(私の血にも、特別な力があればいいのに)
唐突にそう思った。
生まれた思いは秒ごとに大きく育ち、あっという間に花の心を揺さぶるほどの
(欲しい、欲しい、欲しい、欲しい)
今まで欲しいと思う物は数え切れないほどあったが、ここまで激しく何かを切望したのは初めてだった。
(この人を1人にしないための……、二郎さまの役に立てる〝血〟が欲しい!)
その瞬間、柄杓を持つ二郎の手が中途半端な位置で止まった。
花はハッとして顔を上げたが、二郎と目が合うことはなかった。
二郎の左目は、店の扉に向けられている。
「どうしたんですか?」
「……外に誰かいる」
二郎が花を背中の後ろに隠すと、ガチャリとドアノブが回った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます