花めく(5)

 碁盤の目に整備された道をどれくらい進んだのか分からない。


 二郎に手を引かれたまま走って、走って、足がもつれて、花は一度転んだ。すぐに立ち上がって走り続け、ようやく止まった時、狐と約束した3分はとっくに過ぎていた。


 着いたのは、外観のほとんどが新緑色のツタで隠れた建物。花は肩で息をしながら地面に置かれた看板を見る。文字は読めなかった。


 二郎が扉を開いた。

 中は、まるで小さな森だった。


 床には土が敷かれ、多種多様の木が不規則に立ち並んでいる。中央の丸いスペースには色とりどりの花々が咲き、蝶が舞い、全体を甘い蜜の香りが漂う。夕焼けのような照明が付いた天井からは、大量の短冊が吊るされている。値札らしき記号と数字が書かれており、ここが植物を売る店なのだと花は分かった。


「おいで。怪我をしている」


 二郎に言われて、花は右の手首に大きな擦り傷があることに気づいた。途中で転んだ際に出来たらしい。

 木と木の間に水場があった。花の腰くらいの高さの岩が茶碗のような形に削られ、器のギリギリまで透き通った水がたまっている。


「痛くないか? 傷口を洗った方がいい」

「わ、私より二郎さまです!」


 花はサッと青ざめる。近くで落ち着いて見ると、二郎の包帯と着物は血まみれだ。


「私よりもずっと血が出ているじゃないですか!」

「慣れている。大丈夫」

「大丈夫じゃないですよ! あぁ、どうしようどうしよう! 学校の授業で習ったんです。人間は体内の血液の3分の3を失ったら死んじゃうって!」

「…………」


 正しくは3分の1の時点で死ぬが、誤って覚えている花を二郎は訂正しない。そんな余裕は、無かった。


「……花、よく聞いて。ここは蜜と草の香りが強いけど、いずれ僕たちの匂いは嗅ぎ付けられる」

「……はい」

「奴らに見つかる前に、君を13丁目の外に出す」

「えっ」

「一族と町民が集まる屋敷には戻せない。だから駅へ行く」


 無意識に花は、心臓のあたりを両手で押さえた。


「……二郎さまは?」

「僕は残る。狸をこの町から出すわけにはいかない」


 二郎が羽織の内側から、折り畳まれた白い布を取る。布をめくると懐中時計があった。時刻を確認した後、二郎はそれを花に差し出した。


「あと30分ほどで汽車が来る。君はその汽車に乗るんだ。10丁目には戻ってはいけない。11丁目と12丁目も治安が悪いからダメだ。できる限り富裕層の町に近い場所に行って。その付近の警察はしっかりしているから、保護してもらうんだ。この懐中時計を持っていって。困ることがあれば売ってかまわない」

「……」


 花は返事をすることも、時計を受け取ることも出来ない。

 13丁目から出ていく。つまり二郎と離れるということだ。脳裏にあの日の朝が蘇った。


 1枚の置き手紙。

 お金が入った封筒。

 冷えた空気。

 自分しかいない部屋。

 唯一の家族に捨てられた現実。

 思い出すだけで全身が寒くなっていく。


(ううん。これで良いのよ。だって私を食べるために狸は町で暴れて、みんなに迷惑をかけた。私はこの町にいてはいけない)


 二郎の判断は正しい。そうやって自分に言い聞かせていると、


「迎えに行くから」


 予想もしていなかった言葉が胸にストンと落ちてきた。


「狸を殺した後、君を迎えに行く」

(……そうだった)


〝君は捨てない〟と、二郎はさっきも言ってくれた。

 淡々とした声音なのに温かく、瞳にじわりとした感覚が走る。花は胸に当てていた手で両目を覆って、


「いえ、私のことは捨ててください……っ!」


 そう訴えた。

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