花めく(4)
「くくく。狐や。どうしてその娘と一緒にいるんだい?」
屋根の上から狸が問うと、人間の姿をした狐がコテンと首を傾けた。
「お主こそどうした? 体から煙が出ているぞ。傷でも負ったか?」
「あぁ。次男坊にやられた」
「へぇ……。って、二郎! そんなに血を流して可哀想に!切なかろう? 抱きしめてやりたいが、妖の我では叶わぬ!」
「え、温度差……」
狸と狐が会話している。
つまり、上級の妖である狸と狐が同じ空間にいる。
加えて、
「二郎さま!」
何の力も持たない少女。
『見捨てろ』
死んだ父の声まで聞こえた気がした。
「まぁ、俺としては嬉しいがね」
狸が舌なめずりをした。花の血肉を喰おうとしている。その凶行は、
「娘よ。ちゃんと覚悟を持って来たんだろうね? 」
「っ!」
花の肩がビクリと揺れた。
「次男坊に守ってもらえるから平気だろう、なんて甘い考えはしてないよねぇ?」
「わ、私は……っ」
「いくら次男坊とて、俺と狐を相手にするのは無理だぜ」
花にそんな考えは無い。二郎は狩り場においては弱い者を拒絶するのだと、三郎からも聞かされたばかりだ。
それでもただ、漠然と、ここへ来なければならない気がしたのだ。この衝動を言葉に出来ず、何も言い返せなかった。
花は歯痒くて狸を見上げたが、狸の両目は二郎を楽しそうに眺めている。
その二郎は、狐をじっと見下ろしていた。
「……狐」
「何じゃ?」
嬉々とした瞳で狐は見返す。
「お前がその子を無理やり連れてきたのか?」
「む、違うぞ! 我は〝行きたいのなら連れて行ってやろうか?〟と言っただけ。ここへ来ることを選択したのは花じゃ」
狐が頬を膨らませると、狸はニンマリ嗤った。
「愚かな娘だねぇ。見捨てなよ。……お前の父親ならそうするぜ」
〝足手纏いを許すな〟
〝いつか私は狐に敗れるだろう。その時が来たら、私を切ってすぐに逃げろ〟
桜郎は、自分自身のことさえも捨てろと言っていた。
〝お前は必ず生き延びろ〟
それが正しいことなのだと、人生を以って教えてくれた。
「狐」
二郎がもう1度呼べば、狐はやはり嬉しそうにする。
「何じゃ?」
「狸の言うように、お前たちと戦うのは難しい。弱い者を守りながらでは、なおさら無謀だ」
花の胸がズキリと痛んだ。狸よりも二郎の口から出た言葉の方が、心のずっと深くに突き刺さった。
(私がいても、あの人を困らせるだけなのに)
馬鹿だった。勢いだけで来てしまった後悔に、全身が冷たくなっていく。
「そうじゃのう。で、どうするのじゃ?」
「捨てる」
「ほう! これは意外! 花を見殺しにするのか?」
二郎は血で汚れた指を3本立てた。
「3分」
「え?」
「僕に、お前の時間を3分くれないか」
「は?」
「3分間、狸の動きを止めて欲しい」
「……は??」
狐は呆けた顔を、狸は怪訝そうな顔をする。
「おいおい。お前さん、何を言い出すかと思えば……」
「そうじゃ。わけが分からん。というかお主、その3分間で何をするつもりじゃ。ラーメンでも作るのか?」
「その子を逃がす」
俯いていた花がハッとして顔を上げた。
「……」
「……」
狸と狐は互いを無言で見合う。
数秒後、
「「ははははははっ!」」
両者は声をあげて笑い始めた。
「狸よ、聞いたか!?」
「あぁ、聞いたとも! まさかこの期に及んで娘を逃そうとするとは!」
「しかも我に頼み事をしてくるとはな! 追い詰められておかしくなったか?」
町民が避難し、閑散とした町。そこに響く嘲笑を、二郎は無表情で聞いていた。
「くくく。狐がお前さんの味方をするわけないだろう? この騒動は俺の暇つぶしでもあるけれど、狐の願望でもあるんだよ?」
「うむ。お主に協力しても我には利得が無い」
「お前にも3分の時間をやるよ」
二郎は言った。
「僕の人生の3分間を、お前にくれてやる。……その間、お前の言うことを何でも聞いてやる」
「悪あがきはやめな」
狸のやかましい嘲笑が、静かな冷笑に変わった。
「みっともない。いくら狐がお前さんのことを大好きでも、そんな口車にのるなんて、」
ありえない。そう続けようとした寸前だった。
狸に、様々な異変が起きた。
まず鼻に強烈な痛みが走り、次に骨が軋む音が脳内を駆け巡る。
その次の瞬間に、さっきまで一緒に笑っていたはずの狐から右ストレートを喰らわされたのだと理解した。
そして最後に、殴られた力によって後方へ吹っ飛ばされた。
狸が立つ屋根に狐が飛び乗ったのと、二郎が花の目の前に飛び降りて来たのは、寸分違わず同じタイミングだった。
急な展開を飲み込めないでいる花の手を、二郎が掴んだ。
「二郎さま……?」
「君は捨てない」
故に、父の教えを1つ捨てる。
花の手を引いて、二郎は町の中へ消えて行った。
「すまぬ! 右手が勝手に動いた!」
これまでいた場所から50メートルほど離れた場所で、狐は正座していた。頭を下げ、白い長髪が地面に垂れ落ちる。
「……うん。あれだね。まさかあそこで裏切られるとはね。俺はお前さんのこと友だと思っていたけど、お前さんは普通に友達より男を取ったね」
狐の前では、狸が大の字で倒れていた。殴られた鼻は無惨に歪んでいる。
「本当に申し訳なかった。あやつの〝お前の言うことを何でも聞いてやる〟という言葉に惑わされた。こんなチャンスは2度と来ないと思った。もうハッキリ言えば欲情した」
「渾身の右ストレートだったものねぇ」
「くっ、我としたことが!」
狐が悔しそうに、右の拳で地面を叩く。
「……おや?」
狸はふと気付いた。
「お前さん、
狐の
手首から先がスパッとなくなり、切り口からは白い靄のようなものが出ている。
「あぁ。さっき、右手が勝手に動いてしまったんじゃが……」
口元を少し吊り上げる狐。
「左手も、勝手に動いちゃった♪」
「……へぇ?」
歪んだ鼻を、狸はボキリと元に戻した。頭はまだフラフラしている。
「その左手はどこへ行ったんだい?」
「追っている」
狐が立ち上がる。
「3分、経ったな」
思い切り笑みを深めて、唇が三日月のような形になった。
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