花めく(1)

 泣き顔が無表情に変わる。

 淡緑の髪から羊の角がポロリと落ち、代わりに三角の耳が生えた。着物は溶けるように消え、立ち姿が4足歩行の姿になる。


 その全身が雪のような体毛に覆われる。最後に、無表情が笑顔に変わった。


 花の顔から血の気が引いた。



「狐!?」


 現れたのは大型犬ほどの白い生き物、狐だった。


「きゃはははっ」


 無邪気な笑い声がその場の雰囲気を一気に禍々しくする。


「町民のフリをしたら、あっさり屋敷に入れたわ! ここに来るまで誰も我だと気づかぬ。とんだマヌケばかりだな。我の気配を読めるのは二郎だけではないか。あやつ、生まれてくる時に一族みんなの才能を奪い去ったのではないか?」

「……っ」


 楽しそうな狐に、三郎は吐き気がした。


(何なんだ、この異様な重圧感は)


 瞬の間でも気を抜けば、膝を着きそうになる。

 これが上級の妖。一族の長年の仇なのか。


「町が騒がしいと思ったら狸が動いておったか。あぁ、だから二郎は山に来てくれなかったのか」

「山……?」


 反応したのは花だった。


 狐が首を傾げる。


「ん? まさか知らないのか? あんなに大切にされておきながら、お前らの距離感はよく分からんのう」

「っ、狐と話してはいけない!」


 三郎が振り絞るように声を出すが、


「ほぼ毎日、二郎は我の山に来るぞ? 我が縄張りである東の山にな」


 狐は話し続け、花は思い出す。二郎の身体から、血の匂いがしたことがあった。


(もしかして、あれって!)

「ずっと引きこもっていたのに、急に我と遊ぶようになったのは……。うん、そうじゃ。花が13丁目に来てからじゃ」

「っ!」

「ここの当主は、外部の人間をひどく憎んでおる。考えるに、花を屋敷に住まわせる交換条件として、我を殺せと命じられたのだろう」


 花は口を開いたまま固まった。

 知らなかった。


(私が勉強をしている間も……、ご飯を食べている間も、本屋で働いている間も、あの人は狐と戦っていたの?)


 三郎も錦も驚いた様子はない。知らなかったのは自分だけなのだ。


(お兄ちゃんの時と、同じ……)


 自分の生活は、誰かの犠牲のうえに成り立っていた。

 また、それに気づかずにいた。


(私は、何も変われていない)

「二郎のところに行くか?」


 狐が言った。

 心臓が、ドクンと疼いた。


「気になるのなら、連れて行ってやろうか?」


 花の周囲が、唐突にぐにゃりと動いた。空間が縦長に2メートルほど歪み、その部分だけ景色がおかしくなっている。


「その歪みに入れ。町へ繋がっているぞ」

「ダメだ、行ってはいけない!」

「花さん!」


 三郎と錦が順に叫ぶ。


 花は混乱した。胸を突き破りそうなほど心臓が跳ねている。以前に狸に食べられそうになった時よりも、二郎に着物姿を〝可愛い〟と褒められた時よりも、彼に頭を撫でられた時よりも、初めて名前を呼ばれた時よりも、ドキドキしていた。


「さっきも言ったはずです! 貴女が行っても何も出来ない!」



〝弱い者は狩りには連れて行かない〟



 教えられたばかりの言葉が脳裏を過ぎる。


(違う、行かないと)


 それなのに、何故そう思ってしまったのか、花は分からなかった。


「狸の狙いは貴女なんだ! 絶対に行くな!!」


 そうだ。自分が町にいたから、こんなことになってしまったのだ。朧、歌丸、梟、町の妖たち、近衛家に迷惑をかけている。

……なのに。


(行かないと……)


 その思いがどうしても消えない。消えるどころか、1秒ごとに強くなっていく。



(そうでなければ、あの人を失くしてしまう気がする)



 いつの間にか、三郎の声も錦の声も花には聞こえなくなった。ただただ〝行かなければ〟という根拠の無い気持ちが、三郎の正論を上回った。


 無意識に、本当に無意識に、花は立ち上がった。


 三郎が花を捕まえようと動き、錦は履き物も身につけずに庭に出る。


 三郎の腕が花に届くよりも、狐が彼の右肩を噛んで引き倒す方が先だった。

 錦の足が花に駆け寄るよりも、空間の歪みが花を飲み込む方が早かった。


「貴様!!」


 三郎が肩を押さえながら狐を睨む。すぐに起きて、自らも歪みに入ろうとした。


「お前も行くのか?」


 狐が尋ねてくる。


「僕は、あの娘を守るようにと当主さまに命じられているんだ!僕は確かに弱いけれど、命令は破らない!」

「……あの当主も、何やかんやでブラコンよのう」


 クスクスと笑う狐。三郎はカッとなった。


「何がおかしい!?」

「弟たちが可愛いあまり、何にも気づいていないではないか」

「どういう意味だ……っ!」

「我は気づいているぞ?」


 狐は三日月のような赤い両目を、さらに細くする。



、我は知っておる」



 狐の瞳と対照的に、三郎の目が限界まで見開いた。



「あ、ちなみに二郎も気づいているぞ?」


 とっっっっくの昔からな。



 まるで金縛りにかかったかのように、三郎は指一本動かなくなった。

錦は両手で口元を覆い、真っ青になっている。


「考えるに、二郎がお前たちを頼らないのは、お前たちが〝弱いから〟ではない。お前たちを〝信頼していないから〟ではないのか?」



 狐はニッコリと、笑みを深めた。

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