襲来(2)

「良かったねぇ、花ちゃん」

「はい……!」


 配達の帰り道。本の荷台を牽引する三輪車を朧が運転し、花は三輪車の荷台に座っている。


 花は小さな正方形の箱を、幸せそうに抱いていた。

 淡い桜色の包み紙には三日月が描かれている。昔からあの菓子屋には、三日月の晩になると蜂の大群が金色の蜜を運んでくるらしい。箱の中にはその蜜を練り込んだ饅頭が入っている。甘い香り、そして月明かりと同じ色を持つ生地はとても幻想的で、花は一瞬で心を奪われた。


「表面には出してなかったけど、狼のおっちゃんも喜んでたわ」

「そ、そうでしょうか?」

「うん。二郎さんも絶対に喜んでくれるよ。花ちゃんが一生懸命働いて、買ったお土産やもん」


花はそっと、小さな菓子の箱を抱きしめた。


(……ねぇ、お兄ちゃん。働くって大変なことだね)


 4日間、働いている。たった4日でも花は緊張してばかりだったし、不慣れなことが起きると慌てたし、嫌な思いもした。夜になると疲れてヘトヘトで、すぐに眠ってしまった。

 そうして得たお金は、1人分のお土産代。


(私は……、当たり前のようにお兄ちゃんから学費や生活費を出してもらっていた)


 兄は、2人分の生きるお金を稼がなければならなかった。花と同じ歳のころには、すでに1日のほとんどを働いていた。

 花は、仕事から帰ってきた直後の兄が好きではなかった。たいてい不機嫌だからだ。明らかに苛ついたオーラを纏いながら、晩ご飯を作り始める。花も簡単な手伝いをした。決して八つ当たりはされない。だけど兄の機嫌が落ち着くまでは、狭い家には重たい沈黙が流れていた。


(お兄ちゃんだって疲れていたんだよね。私なんかよりも、ずっと疲れていたよね。……私は、お兄ちゃんに一度でも言ったことがあったのかな?)


〝ありがとう〟って。

 私のためにいっぱい働いてくれてありがとう、って。


 花は首を横に振った。


(……ううん。言わなかった)


 二郎には恩返しをしたいと思った。

 なのに、兄に対してはそうは思わなかったのだ。


(あぁ、そうか)


 自分はそれを〝当然だ〟と思っていたからだ。

 兄は家族だから。花よりも年上だから。

 お母さんもお父さんもいないのなら、兄が自分の面倒を見ることは当然なのだと。

 花はずっとそう考えていた。考えていたけど、それは結局は何にも考えていなかったことと同じだ。


(お兄ちゃん、ごめんなさい)


 私も働き始めたよ。

 少しはしっかりした子になれるかな?

 お兄ちゃんの気持ちを理解できるかな?

 お兄ちゃんの心に近づけるのかな?


(このお菓子、お兄ちゃんにも食べて欲しいな……)


 花がそう思った瞬間だった。



「およめさん!」



 近くで可愛らしい声がした。

 ハッとして見渡すと、進行方向に建物があった。看板の文字は花には読めないが、とっくりの絵があるので、恐らく居酒屋だろうと思った。その居酒屋の前に、小さな女の子が立っている。


「あら、こんにちは」


 朧が自転車の速度を落とし、女の子に手を振る。丸い獣耳が付いた女の子は〝こんにちは!〟と元気よく返した後、花を指差した。


「じろさまの、およめさん!!」

「!?」


 花がポカンとしていると、店内から女の子と同じ耳を持つ女性が出てきた。


「こら、何言ってるの! やめなさい!」

「ねぇ、おかあさん。あのひと、およめさんでしょ?」

「あぁ、もう! ……ほほ、どうかお気になさらず!」


 母親らしき妖は、女の子を抱き上げて店へ戻って行く。


「?? あの朧さん、今のは一体……?」

「ふふ。子供は素直やなぁ」


 朧がクスクス笑っている。

 居酒屋の前を通り過ぎてから、朧は話し始めた。


「実は少し前から、町に噂が流れとるんよ」

「噂?」

「うん。〝もしかして花ちゃんは、二郎さんがお嫁さんにするために連れてきた人間かも〟って」

「えぇ!?」


 大きな声が出た。


「ち、違います! 私と二郎さまはそんな関係ではなくて! えっと、その……」


 慌てて否定した。まさかそんな風に言われていたとは。

 ここへ来た本当の経緯は言えないが、きちんと誤解は解かないといけない。


(二郎さまは、親切心で私を引き取ってくれたんだから!)


 しかし焦る反面、花はドキドキしていた。


 さっきの女の子の〝じろさまの、およめさん!!〟という拙い言葉が頭で繰り返され、心が乱される。なのに何故か、それは不愉快な感覚ではなかった。


(うぅ、顔が熱い……! 全然違うのにーー!!)

「はは、大丈夫。そんなに必死にならんでも、分かっとるから。歌丸かて信じてへんし」

「で、ですよね!」

「人の噂も七十五日ーー、それは妖の世界でも同じや。すぐに消えてなくなるから」

「はい!」

「それにそもそも、二郎さんには錦さまがおるしね」

「え?」

「従姉妹の錦さま。あの方が、二郎さんの婚約者やもんね」

「ーーーー」



 花は、言葉が出なかった。


(え……?)


 あれだけ熱くドキドキしていた心臓が、一瞬でヒュッと冷たくなる。


「こ、婚約者……? 二郎さまと錦さんが?」

「あれ、知らんかった? 数年前に決まったらしいよ。まぁ婚姻の儀式はまだやってないみたいやけど。でもお二人とも成人してるし、いつ結婚されてもおかしくないねぇ」

「……」


 二郎は貴族だ。平民の花と違って、婚約者がいてもおかしくない。


(だけどまさか、その相手が錦さんだったなんて。そんなの聞いたことない……!)


 いや、それだっておかしくないのだ。花は他人なのだから、わざわざ教える理由は無い。ちっとも変じゃない。


(……変じゃないのに、どうして?)


 胸の辺りがズキズキと痛み出す。


(何で私はこんなに苦しいの?)


 イヤだ。何これ。

 この気持ちは何?

 教えて。

 助けて。

 お兄ちゃん……!


 少しはしっかりした子になれるかな、なんて思った矢先に、また無意識に兄を頼った。それに気づくと胸の痛みはさらに増した。


(怖い……っ!)


 花は瞳と唇をギュッと閉じて、知らない痛みに耐えた。












「〝たぬきは、頭の上に葉っぱを乗せて変化へんげの術を使う〟……か」



 歌丸は独り言を呟く。

 彼の隣には、床から天井近くまで積み上がった本がある。さっき入荷したばかりの物で、本棚へ収納していた。


 途中、一冊の本に目が止まった。

 タイトルは〝妖事典あやかしじてん〟。

 人間の町から流れてきた書籍だ。何となく読んでみた。


 歌丸は、この世でたった2体しかいない上級レベルの妖を思い出した。

 

 1体目は狐、2体目は狸。


 狸は縄張りである西側の森から滅多に出てこない。町に現れるのは、13丁目に来た人間を襲う時くらいだ。今は花が町中にいるけど、彼女の背後には近衛二郎がいるから手出しは出来ないだろう。



「あのデカイ狸さんも、葉っぱを使って人間に化けたりするんやろうか? ……ってアカン。仕事せな」



 言い終わると同時に、年季の入った音が響いた。

 亜麻屋の古いガラス戸を開ける音だ。


「はい、いらっしゃいませ。あ!」


 歌丸は目を見張る。

 ガラス戸を外から開けたのは、



「……こんにちは」



 近衛二郎だった。

 感情が分からない淡々とした話し方。濃紺の着物に、同色の羽織。顔のほとんどを覆う白い包帯、黒い髪と左目。


(よし!)


 歌丸はひっそりと意気込んだ。数日前に怪我をしていた二郎を介抱した際、彼と少し話すことができた。


(俺は変わるで! もう叫んだり、ビクビクしたり、失神したり、そういうのはナシや!)


 そう思えるようになった。近衛二郎は、自分が思っているほど恐ろしい人物ではないことを知ったから。


「いらっしゃいませ! 今日はどうしましたか?」

「花は、どこ?」

「へ?」

「花を迎えに来た」

「……?」


 歌丸は思わず、自身の首に掛けてある懐中時計を見た。

 現在の時刻は午後15時15分。花の仕事が終わるのは午後17時。


(……え? 迎えに来るには、早すぎへんか……?)


 両開きのガラス戸から、二郎が両手を離した。

 腕が下に向かって、だらんと垂れる。


 羽織の左右のそでの中から、数枚の葉っぱがハラハラと床に落ちた。

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