襲来(序)

「タバコって美味しいの?」


 昔、二郎は尋ねた。


「クソまずい」


 と、タバコを口に咥えながらはるは即答した。


 二郎は、壁際のソファーに座っている。古いソファーで、あちこちの皮が破け、裂け目から中身が見えていた。


 晴は、窓際に置かれたベッドで胡座あぐらをかいていた。そのベッドもやはり古く、硬そうなマットレスの上にボロボロの毛布が1枚だけ置かれている。


 黒い作業着のポケットから、晴がライターを取り出した。着火する寸前、二郎は顔を少し逸らす。


「じゃあ何故、吸うの?」

「仕事場のおっさんが無料ただでくれるから」

「……ただより高いものはないと、兄さんが言っていた」

「おっさんは俺に見返りを求めてこねぇよ。今のところはな」

「……」

ってさ、もしかしてタバコ嫌いなの?」

「……」


 横目で晴の手を見ると、タバコから煙が出ている。晴はその先端を窓の外へ向けてくれたが、それでも火の気を感じ、包帯の下の火傷が疼いた。


「……痛ぇのか?」


 右頬を手で抑えた二郎に、晴の鋭い目つきがピクリと動いた。


 晴は、包帯の原因が火傷だと知らなかった。もちろん、二郎が火を苦手にしていることも知らない。

 二郎が〝包帯は病によるもの〟だと嘘をついていたからだ。晴に話しているのは、近衛の血の力のこと、近親婚のこと、家族のこと、そして狐に父親が殺されたことだ。


「……いや、痛くない。大丈夫」

「なぁ、その病気って治らねぇの?」

「治らない」

「ふーん。金持ちでも治せない病気ってあるんだな」

「うん。だからこそ、健康というものは尊い」

「説得力が半端ねぇな」


 そう言いながらもタバコを離さない晴。吸って、外へ向かって吐く。やや強い風に煙はすぐに攫われていったが、狭い部屋には薄荷はっかの匂いが残る。


 やめてほしいと、密かに思った。

 狐火で顔を燃やされた過去を持つ二郎にとって、タバコ程度の小さな火でも落ち着かない。

 だけど、


「……君の身体が心配だ」


 その気持ちも本当だった。


「君は1日に吸う本数が多い。1日ごとに、1本ごとに、君の肺は傷ついている」

「知ってる」

「じゃあ何故、吸うの?」


 質問が元に戻る。

 二郎と晴は会うたびに、喫煙について似たような会話を繰り返している。いつもならこの辺りで晴が笑って誤魔化すのだが、今日は違った。


「タバコは、肺には悪いけど、物だから」

「……? どういうこと?」


 答えは聞けなかった。質問をしたのと同時に、外から怒号が聞こえてきたからだ。


 男の声だった。彼は誰かを挑発しているらしく、汚い言葉を吐き捨てている。言われた方の男も、聞くに耐えないスラングで言い返した。

 すぐに喧嘩へ発展した。


 二郎と晴がいるのは10丁目北側に建つ、廃ホテル3階の一室。

 晴は窓から外を見下ろした。眼下には殴り合う男2人と、喧嘩を煽って盛り上がる多くのギャラリーたち。


「あー、くそ。うっせぇな」

「……どうして彼らは争っているの?」

「知らねぇ。どうせくだらねぇことだよ」


 晴はベッドの下に手を伸ばした。カランと金属音がした後、その手には鉄パイプが握られていた。

じっと見つめてくる二郎に、晴は八重歯を見せて笑った。


「分かってるって。自分からは行かねぇよ。こいつはあくまで護身用。俺らもそのうち巻き込まれるから」

「巻き込まれる?」

「あいつらは他人の喧嘩を見てたら、だんだんテンションおかしくなるんだよ。刺激されて、興奮して、自分たちも暴れたくなってくる。そしたら見境みさかいなく無関係の人間を襲い始めるんだ。例えば、すぐ近くにいる奴とかな」

「……彼らは、この部屋まで上がって来るということ?」

「あぁ。もうじきホテルに乗り込んでくるぞ。今、別の部屋でセックスしてる奴らは気の毒だな。途中で邪魔されて」


 晴は言いながら、水が少し残ったペットボトルにタバコを落とした。火が消えると、二郎がソファーから立ち上がる。晴のそばへ行き、鉄パイプの先にそっと触れた。


「……血を使えばいい」

「は?」


 晴が訝しげに眉根を寄せる。


「父に教えられた。近衛の血は、妖の命を奪う。人間に対しても一定の損傷と状態異常を与えられると」

「……マジで?」

「うん。人間が死なない程度のものだと聞いた。例えば人の骨を砕ける、内臓を潰せる」

「いや、それ普通に死ぬんじゃね?」

「瞬時に眠らせる、幻惑を見せられる」

「おぉ、すげぇ便利じゃん」

「しばらく金縛りの状態に出来る、一時的に視力を奪う、胃もたれ胸焼けを起こさせる」

「最後の効果は何なの? ギャグなの? ツッコミ待ちなの?」


 二郎は、この部屋と隣室を隔てる壁を見た。


「……他の部屋にいる人たちも、助けられるよ」

「やめとけ」


 首を左右に振る晴。


「こういう廃墟を使ってる奴らは、念のために護身用の銃を持ってるから。下手に行くと銃撃戦に巻き込まれるぞ。……自分の身は自分で守るのが10丁目の常識だ」

「……そうか」


 二郎は着物の袖から折り畳みナイフを出し、自身の手のひらに刃先をあてた。


「それが常識なのだとしても、君の身は僕が守ろう。君は銃を持っていない。……その武器を貸して。僕の血を塗ろう」


 晴は二郎の腕を掴み、ナイフから離した。


「やめろ。要らねーよ」

「……どうして?」

「……アンタは、血を流さなくていいから」


 二郎の左目が微かに揺れた。

 そのことに晴は気づかず、舌打ちする。


「この辺も物騒になってきやがったな。ここで会うのはもうやめるか」

「……会う場所を移すのは、これで3回目」

「仕方ねぇだろ。こういう町なんだ」

「次はどこへ行くの?」

「どっか遠いところへ行くか?」


 外は、どんどん騒がしくなっている。

 開いたままの窓から不穏な空気が流れ込んできている。

 そんな中で、晴は笑った。


「10丁目でも13丁目でもなくてさ、月城町そのものから飛び出して、2人でめちゃくちゃ遠い場所に行っちまうか?」



〝お互いに、何もかも捨てて〟



 直後だった。


 二郎の耳に、様々な音と声が飛び込んできた。

 五月蝿い足音、破壊音、下品な笑い声、罵声、銃声。晴の言った通り、廃ホテルの前で騒いでいた連中が乗り込んできたようだった。


「……僕が〝そうしよう〟と答えたら、晴はどうするの?」


 二郎は訊くが、質問は再び阻まれた。

 2人がいる部屋のドアを、何者かがバンバンと叩き始めた。鍵のかかったドアノブが狂ったようにまわされて、錆びた鍵が壊される。木製のドアが勢いよく開き、1人の男が入ってきた。小太りの中年で、金属製のバットを持っている。口から涎を垂らし、目は完全に血走っていた。


「なんだぁ? 女はいねーのかぁ!?」


 なんでだよぉ!? ここはホテルだぞぉ!? あ、分かった。お前らゲイか。ちくしょう、ハズレの部屋を引いちまった!

……ん? 女はいないけど、変わった服装の兄ちゃんがいるな。良さそうな布じゃねぇか。さては金持ちのボンボンかぁ?

 へへ、ハズレかと思ったけど、むしろラッキーじゃねぇか!


 1人で喋る男を晴は睨みつけて、


「……じろさん、部屋の隅でいろよ」


 鉄パイプを肩に抱えた。



 同じ年齢で、同じ身長。なのに自分よりも逞しい後ろ姿に、二郎は晴という人間について考えた。


 出会った頃はおとなしい茶髪だったが、今は夕焼けのように派手な橙になっている。〝色が気に入らない〟と何度も染め直して、やっと今の色合いで落ち着いた。


 耳のピアスもコロコロ変えて、数は多くなっていった。


 会うたびに、彼はよく話すようになった。

 そして二郎は知った。

 彼は、わざと自身の髪と耳にダメージを与えていた。それらは自傷行為のようなものだった。


 会うたびに、彼はよく笑うようになった。

 しかし二郎は知らなかった。

 さっきの晴の笑顔は、初めて見たものだった。いつもと同じようで、どこか違う笑い方。

 あんな風に笑う晴は知らない。



〝どっか遠いところへ行くか?〟



 その言葉は冗談だったのか、本気だったのか。男の乱入によって、答えを聞く機会を失ってしまった。

 きっと晴はもう本音を言わないだろう。二郎が真意を問いただしても、いつものように笑って誤魔化すのだろう。



 後日、二郎が知った事実といえば〝タバコを吸うと空腹感を紛らわせる効果がある〟と、言われていることだった。


 タバコも自傷行為の一種ではないかと思っていたが、見当違いだった。


 彼は妹に食べ物を与えて、自分はタバコを吸って空腹を誤魔化していたのだ。

だから〝胃袋にはありがたい物〟と言っていたのだ。


 あの日の晴を思い返すたびに、二郎は推測する。

 彼は冗談でも本気でもなかった。

 ただ、言ってみたかったのだ。

 まるで、決して叶わない夢を語るように。

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