初めての(後)
市場から離れた細い通りを、二郎と花は並んで歩いていた。
2人の後ろには、二郎の命で花を見守っていた梟が飛んでいる。
この通りは妖がいなくて静かだった。道端を流れる用水路の水音だけがサラサラと響いている。
(初めてだ)
俯き加減の花の頬は、うっすらと赤くなっている。
花が知る二郎は基本的に屋敷にはいない。会えない日だってある。
日が沈む前の明るい時間帯に会えて、しかも町を一緒に歩くなんて初めてだった。
「……仕事はどうだった?」
亜麻家から少し離れたところで、二郎が口を開いた。
「とても勉強になりました! いろいろあったけど……、それでも楽しかったです」
「……そうか」
花はいそいそと着物の袖から縦長の封筒を出した。
「日当を貰えました! 自分が働いて得たお金は、これが初めてで……。何ていうか、感動しました!」
「……」
二郎が急に立ち止まった。花も自然と足を止める。どうしたのかと思うと、二郎の細い手が花の金色の髪に近づいてきて、
「花は偉いね」
頭をぽんぽんと撫でた。
鏡を見なくても、花は自分の顔が真っ赤になったことが分かった。
(じ、二郎さまに褒められた! ぽんぽんってしてくれた……!!)
二郎のたった2つの行動で、花の鼓動は激しくなり、心臓が飛び出しそうになる。
「……僕も今日は初めてだった」
「え?」
二郎の手が離れる。
「朧さん以外の町民とあんなに話したのも、物を借りたのも、初めてだった」
ドキドキしていた胸が、チクリと痛む。
二郎は詳しく話してくれなかったが、この臙脂色の着物は歌丸から借りたらしい。
(産まれたときからこの町にいるのに、今日が初めてなんて)
二郎自身がどう思っているかは分からないけど、花は寂しかった。
「……二郎さま」
「何?」
「私、もっともっと頑張りますね!」
朧の言うように、たくさん笑おう。
私は、二郎さまに会えて、とても幸せです。
町中のみんなにそう伝わるように。
「……そうか。頑張るのか」
「はい!」
「花が頑張るのなら、僕も頑張るよ」
(……? 二郎さまも何かやっていることがあるのかな?)
その時、前方から視線を感じた。
見れば、2体の妖がいた。曲がり角に身を隠すようにして、こちらを覗いている。どちらもまだ10歳未満の子供で、猫のような耳と尾が生えていた。顔立ちがそっくりなので恐らく兄弟だろう。
人間がよほど珍しいのか、兄弟は二郎と花を交互に見てくる。しかし恐怖心はあるようで、兄は弟の手をしっかりと握っていた。いつでも弟を連れて逃げられるように。
(お兄ちゃん)
花は自然と思い出す。兄も、いつも自分の手を引いてくれた。
(お兄ちゃん、元気かな……)
一方で、二郎の脳裏には弟の顔がよぎっていた。
何日か前の夜、狐を殺すための討伐隊を組みたいと言われた。二郎は彼らを拒絶した。
弱い者は要らないと、冷酷な言葉を放った。
あの夜以来、ほとんど弟と話していない。
やがて幼い兄弟は去っていった。
ずっと、手を繋いだままだった。
ーーーーー
深い夜の森。
本来なら草木も眠る時間だが、今宵はやかましかった。
「あぁ、腹立たしい!!」
広くも狭くもない湖の中心で、さっきからずっと怒鳴っている少女がいる。彼女は何も着ていなかった。全裸の状態で水面を蹴っている。
「くそ、ムラムラする! いや言い間違えた! イライラする!!」
「くくく。やってはいけない言い間違えをしたねぇ」
森の主である狸が笑う。
白い髪に赤い瞳を持つ少女の正体は狐だ。
化けたままの姿で〝血で汚れた体を洗わせろ〟と現れて約30分。ずっとこの調子だ。
狸は落ち葉を拾い、頭に乗せた。
次の瞬間、巨体がぼんっと白煙に包まれる。それが完全に晴れると、狸は人間の姿になっていた。
黒い着物姿の二郎だった。
「お前さんが言い間違えとは珍しいねぇ。次男坊と何かあったのかい?」
声も二郎と同じだ。
全裸の狐が、水面を荒らしながら寄ってくる。水際に座る偽物の二郎の顎を掴んだ。
唇を重ねた。
指で口を開けて、舌を入れて、執拗に絡める。
赤い瞳と黒い左目は、瞬きをすることなく見合っていた。
どれくらいそうしていただろうか。狐は狸を突き放した。
「……違う」
狐は口を拭った。
「見た目は二郎だが、味が違う!」
「そりゃそうだろう。俺は狸なんだから」
「あと中身がお主だと思うと気持ち悪くなってきた!」
「お互いさまだねぇ。激しく同意だねぇ」
二郎に化けた狸が首を傾げる。
「で、何があったんだい?」
「……あやつの心の中に誰かがいる」
少女の顔が憎々しげに歪む。
「我という者がありながら、あやつは他の誰かを慕っておるのじゃ!」
「ほう。誰だい?」
「知らん! たぶん人間だとは思うが……」
「ふむ」
「その人間の悪いところも、良いところも、両方を言っていた! ということは、それくらい親しいのだ! 好いておるのじゃ!」
「……」
「〝そんな人間はいない〟とか〝お前を誘き出すための嘘だ〟とか言っていたが……、やはり怪しい! 誤魔化しておる!」
「……」
「苛ついて仕方ない! そいつがそんなに大切なのか!?」
「……次男坊が大切にしている存在なんて、幾らでもいるだろう? 兄、弟、錦、その他の一族、梟のジジイ。ーーあとは外から来た人間の娘」
「あいつらなど敵ではない! あんな弱者どもはいつでも殺せるのだから! ……しかし!」
浅い水底に狐は座り込んだ。
「しかし、今回はいつも通りに〝敵ではない〟と笑えない……。むしろ苦しいのじゃ。何故なのか分からない……」
「そりゃあ、お前さんが負けたからさ」
狸が出した二郎の声に、狐は呆けた表情をした。
「……負けた?」
「あぁ」
「我が?」
「あぁ」
「ーー我は上級の妖。人間などに負けぬ」
「違うね。〝力〟ではなく〝心〟が負けたのさ。お前さんは、その人間には絶対に敵わないと、直感的に思ってしまったのさ。分からないのは当然だ。上級のお前さんにとっては、生まれて初めての〝敗北感〟なんだから」
「ーーーー」
狐は閉口した。
狐が言い間違えをするのも珍しいが、言葉を失うのはもっと珍しい。
(何て希少なものを見せてくれるんだろうねぇ。あぁ、次男坊。やはりお前を生かしてよかったよ)
楽しいよ。
もっと俺を楽しませておくれーー。
「なぁ、狐や」
「……何じゃ」
よほどショックだったのか、狐の声音は暗い。
「次男坊が慕う人間に、俺は心当たりがあるよ」
「っ!?」
狐の赤い瞳が大きく見開いた。
ーー次男坊は言ったんだ。あの娘には〝家族がいる〟と。
ーーあの娘は叫んだ。俺に食われそうになった時に〝お兄ちゃん、助けて〟と。
それらの情報は伏せて、狸は手を伸ばした。二郎の偽物の手が、少女の白髪を撫でる。頭蓋骨の形を確かめるように、じっくりと。
「俺がそいつを連れて来てやるよ」
そう言うと、狸は変化の術を解いた。
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