初めての(前)
今日の亜麻屋は暇だ。
今日に限って、お客さんが来ない。
歌丸は
包帯、薬草、着物、そしてお湯で濡らしたタオルを渡すと、〝後は自分でやる〟と二郎が言ったので、歌丸は店内へ移動した。
(静かやけど、大丈夫やろか?)
まさか気絶していないかと心配になる。同時に不安でもある。
(うぅ、2人きりかと思うと改めて緊張してきた! 早よ帰ってきてくれ、朧ーーっ!)
「……店主殿」
箒を持っていた手を止める。店内と居間を繋ぐドアのような役割をしている本棚が、控えめに開いていた。その隙間から、二郎が歌丸を呼んでいる。
「はい! どうしましたか!?」
「仕事中の貴方にこんなことを尋ねるのはおかしいけれど……。今、手は空いているだろうか?」
「あ、空いてます! もはや空気を吸ったり吐いたりするしかやることありません!」
「……では、要らない風呂敷があれば1枚と、水を1杯いただけないだろうか」
「はいい! 少々お待ちを!」
歌丸は本棚の内側へ入っていった。
内側は、8畳の居間と3畳の土間が隣接した空間になっている。
まず居間の右側に設置された箪笥階段から風呂敷を取り、次に土間へ下りて湯呑みに水を注ぎ、最後にその両方をちゃぶ台の上に置いた。
二郎は藤色の布袋から、そら豆のような粒を出して湯呑みの水と一緒に飲み込む。
(そういえば、この方は身体が弱いんやったな)
歌丸はそれを病気の薬と思ったが、本当は兄の一郎から貰った造血剤だ。狐との戦いで失った血液を補うための薬。
飲み干した後、二郎は汚れた包帯と洋装を風呂敷に包んだ。
今日も決着はつかなかった。
自分も狐も限界が来て、狐の方から先に姿を消した。
二郎の様子を、歌丸はじっと見る。
顔には歌丸が渡した新しい包帯が巻かれ、血に濡れた髪と腕はお湯で濡らしたタオルで拭いている。
服は、歌丸が貸した和服に着替えていた。濃い紅色をした
(似合ってはるなぁ)
歌丸は仕事以外では派手な和服を好む。選ぶ色は赤、黄色、紫など目立つ色ばかりだし、虎や龍の柄が入っている物もある。さすがにそれを貴族に着させるのは気が引けて、最も地味な着物を貸した。
臙脂と歯車の着物は自分が着ると安っぽくなるのに、二郎だと上質な布に見えてくるのが不思議だった。
(これが育ちの違いと言うものやろか?)
感心した直後、歌丸はギョッとした。二郎が着物の袖をじっと見た後、自身の鼻にあてたのだ。つまり、布の匂いを嗅いでいる。
(えぇぇーーっ!? ま、まさか臭い!? 庶民の匂いがするとか!? それかやっぱり着物の趣味が悪かった!?)
「……本の匂い」
ビクビクしていると、二郎が独り言のように呟いた。
歌丸は目をぱちくりさせる。
「へ?」
「……貴方の着物から、紙とインクの匂いがする。とても落ち着く」
「っ!」
「着物の色と模様も斬新……。いつもは黒色か紺色の、無地ばかりだから……」
「お、俺、そういうのしか持ってなくて。はは」
良かった。着物を嫌がっているわけではなさそうだ。
(……俺も本の匂い好きやな)
〝落ち着く〟という言葉も共感できた。
「……じゃあ、僕は帰る」
「……歩けます?」
「うん、貴方のおかげ。ありがとう」
(うぅ、だから! そんな風に、町民に〝ありがとう〟なんてお辞儀せんといて!)
歌丸は内心で突っ込む。本当に困るのだ。
この人は本当に、町中から恐れられる人なのか?
親から〝絶対に近寄るな〟と教えられた人物なのか?
イメージと現実の差に混乱してしまうから。
「えっと、そろそろ花さんたち戻ってくると思いますし、待ちますか……?」
調子が狂って、また引き止めてしまった。まるで自分の口が勝手に動いているみたいだ。
「……血の匂いがするだろうから」
汚れた服が入った風呂敷に触れながら、二郎が静かに答えた。
歌丸は箪笥階段の方へ向かった。
「さっきの薬草は傷に貼るタイプでしたけど、これは塗るタイプで、消臭効果があります。使ってください」
畳に飛び降りて、蓋を開けた。強烈な匂いが歌丸の鼻腔を突く。
「これ原液なんで、水で薄めてきますね!」
歌丸は再び土間へ走って行った。
花と朧は、本を全て配達した。
荷車を牽引する大人用の三輪車に朧は乗り、さらに三輪車の荷台に花が乗っている。歩きっぱなしだった花を、朧が乗せてくれた。
(朧さん、体力あるなぁ)
背後から朧のお腹に手をまわして、花は思った。
亜麻屋の裏側にまわり、荷車をゴミバケツの近くに止める。
「さて今日は終わり! 花ちゃんお疲れさまでした」
「はい! お疲れさまです」
「日当の賃金を渡すね。ついでに一緒にお茶でも飲もう」
朧が裏口の戸を開ける。
しかし、
バタン!!
朧は何故か一瞬で閉めた。勢いがあったので大きな音が辺りに響く。
「お、朧さん?」
朧の目線が戸から離れて、花を見る。
「花ちゃん。悪いけど、ちょっと待っててくれる?」
「??」
「すぐに戻るから」
ニコニコしながら朧は建物の中へ入っていった。
花はわけが分からず佇んでいると、
「こら歌丸うううううう!!!! アンタは何をしとるんじゃあああああああ!!??」
(え!?)
初めて聞く朧の怒号に、花の肩はビクリと跳ねた。
「ち、違う! これは誤解や!」
ドア越しに、歌丸の必死そうな声。そうかと思えば、
「二郎さまあああああ!!!!」
(梟さん!?)
窓を強引に開けたような音と、梟の悲鳴がした。
(何が起きているの? てゆうか今、〝二郎さま〟って言ったよね? この中に二郎さまがいるの?)
花はドアに耳を貼り付けた。
「あぁ、おいたわしや! このように白く濁った臭い液体を頭にぶっかけられて!」
(白? 液体??)
花には理解出来ないまま、大人たちの会話は続く。
「いや、違うんです! これは薬の原液ですから! 薄めようとしたら、俺が足を滑らせて転んで、偶然ぶっかけてしまったんです! ーーなぁ朧、お前なら分かってくれるやろ? この液体がアレ的な物じゃないことを!」
「うん、分かっとる! せやけど
「痛い痛い! 関節を決めるのやめてぇぇ!!」
「許すまじ! よくもワタクシの主人に
「誤解を招くような韻を踏まんといてください!」
「……朧さんも爺やも、怒らないでほしい」
花はハッとした。淡々としているのに聞き取りやすい、この声の持ち主は。
「店主殿が瓶を落としたのは、わざとではないから」
「でも、ウチの亭主のミスでそんなに濡れてしもうて」
「誰にだってミスはあるし、地球には重力があるから、こういうことが起こっても仕方ないと思う……」
(やっぱり二郎さまが中にいるんだ! 一体どういう状況なのか全然分からないけど!)
不意にドアノブが回った。花が慌ててドアから離れると、朧が戸口に立っていた。
「花ちゃん、待たせてごめんね」
「あ、いえ」
花は朧の向こうに目を向ける。
その先には思い描いていた人がいて、
「二郎さま!」
花はパァッと笑った。
その名前の通り、花が満開に咲いた瞬間のような、希望と喜びに満ちた笑顔だった。室内には薬草のツンとした臭いが充満しているのに、そんなことは意にも介さない様子で、花はキラキラした瞳で二郎を見ている。
朧の関節技から解放された歌丸は、身体を起こす。そして偶然、
(あれ?)
気のせいだろうか。
花を見返す二郎の左目に、微かな変化を感じた。真っ黒で無感情な瞳が、今はどこかキョトンとしているように思えたのだ。
(……もしかして)
この人は、困惑しているのではないか?
あの少女が二郎の姿を見ただけで、何故あんなに嬉しそうに笑ったのか解らず、無表情の下で戸惑っているのでは……?
歌丸が勝手な憶測をしている間に、朧が二郎の頭を丁寧にタオルで拭いていく。
幸いにも、着物は無事だった。
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