初出勤(2)
目眩がした。
亜麻家の裏側にあるゴミバケツ。その隣で膝を抱えて座っていたのは、まぎれもなく13丁目の領主であり貴族、近衛家次男の二郎だった。
(ウソやろ……!)
何でこんな場所にいるかは分かる。あの
分からないのは、この人の状態だ。
二郎からは血液特有の鉄臭さが漂っている。黒い外套は元の色素のままだが、顔に巻いた包帯はほとんどが赤く変色していた。これは確実に〝うっかり転びました。てへ☆〟なんてレベルではない。
呼吸は整っているし、呼びかけに応じたので意識はあるようだが……。
(どこで何をしてきたらこうなるんや!?)
狐の山で殺し合いをしてきたらこうなる……なんて、もちろん歌丸が思いつくわけもなく。
二郎と無言で見つめ合ったまま数秒が経った時、歌丸はハッとした。
13丁目では貴族と町民が会うと、町民側から挨拶をする
町民が挨拶をして、
(いや、こんな血だらけの相手に、呑気に挨拶しとる場合か?)
今は習わしよりも、医者の方が必要ではないか?
そんな疑問が生まれ、言葉が出るのが一瞬だけ遅れた。
すると、
「こんにちは」
その瞬の間に、静かな声がスッと耳に入り込んできた。
歌丸が顔を上げると、
「貴方は亜麻家の店主の、歌丸殿……」
二郎の口が小さく動いていた。聞き間違いではなかった。
習わしをあっさりと破ったのは、貴族であるはずの二郎だった。
歌丸は目の前で起きた現象に驚き、戸惑う。しかし黙るわけにはいかず、
「はい、自分は歌丸と申します! お初にお目にかかりまして……」
「……初めてではない」
「へ?」
「店で何度か会った……。店主殿は覚えていないのかもしれない。貴方はいつも、僕を見た瞬間に気絶していたから」
「 」
歌丸は絶句する。サーッと全身が冷たくなっていく。
(お、俺はこの人に対して重ね重ね無礼を! 酔っ払いと勘違いして気軽に起こしたうえに、何度か面識があるくせに〝お初に……〟とか、ぬかしてしまうなんて! ど、どないしよう、怒ったかな? 誠心誠意50000回くらい謝ったら許してくれるやろか……!?)
「……あの子と朧さんは、今どこに?」
二郎は特に気にしている様子もなく、淡々とした口調で訊いてきた。
「あ、2人にはちょっと外へ仕事に行ってもらってます。朧が一緒に付いてるし、全然危なくはないですよ!?」
「……そうか」
話題が変わり、歌丸は密かにホッとした。
「も、もしかして花さんに用事ですか? まだそんな遠くに行ってないと思うし、呼んできましょうか?」
「かまわない。外からこっそり見て、屋敷に帰ろうとしただけから。……僕がここに来たことも言わなくていい」
フードを深く被り直して立ち上がる二郎。
背中を向けて歩き出したが、一歩踏み出しただけで細い身体はふらついた。亜麻家の壁に左手を付いて、二郎は自力で転倒を防ぐ。
(めっちゃフラフラしとるし……)
踏み込んでいいものかと悩んだが、知らないフリをするには、あまりに痛々しい後ろ姿だった。
「……怪我してますよね?」
「……」
「お、お医者さん呼んできましょうか?」
「……大丈夫」
勇気を振り絞った質問は、短く否定される。
二郎はおぼつかない足取りでゆっくり進んでいく。左手で触れた壁を頼りに歩く姿は、一寸先も見えない暗闇を歩いているようだった。危なっかしくて目を離せずにいると、やはり少し離れたところで二郎の足が止まった。彼の背中がゆらりと動く。
(っ! まずい!)
歌丸は反射的に二郎へ駆け寄った。
「店主殿」
その直後、二郎に呼ばれた。歌丸はピタリと動作を止める。急いで駆け寄ったため、手が届くほどの距離になっていた。
二郎は倒れそうになったのではなく、歌丸の方へ振り向いただけだった。真っ黒な瞳に見上げられてドキリとした時、
「花を、よろしくお願いします」
二郎はそう言った。
しかもお辞儀をした。
今日で何度目になるか分からない驚愕が、歌丸を襲った。
解せなかった。
一歩進むのも大変そうな足取りなのに、何故わざわざこちらへ振り返った?
一介の町民である歌丸に何故〝お願い〟という言葉を用いて頭を下げた?
(何なんや、この人……)
再び背を向けた二郎を、歌丸はポカンと見ていた。
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