〝あの人〟
じわりと右手が熱くなる。
見ると、手首の皮膚が裂けて血が出ていた。
ついさっき、出会い頭で狐に咬まれたのだ。
嫌なところを咬まれた、と二郎は思った。手首に傷なんか出来たら、これを見た者にあらぬ誤解をされてしまう。
『なぁ、我とちょっと話をしないか?』
子供みたいな無邪気な声がする。
どこから聞こえているのかは分からない。
「……何の話だ」
二郎は答えた。会話のためではなく、狐が隠れた位置を突き止めるために。
ここは13丁目東側にある狐の山。
狐を恐れて誰も近寄らないため整備されておらず、非常に足場が悪い。大小の異なる岩と石が転がり、鬱蒼とした木々が立ち並ぶ。隠れる場所は幾らでもあった。この山の唯一良い点は、全体的に傾斜が緩いところだけだ。
『近衛の血と、お主についての話じゃよ』
位置はまだ特定できないが、狐がクスクス笑っていることは分かった。
『近衛の血には霊力が宿っている。強さには個人差があるが、お前たちの血は妖を傷つける。その血に濡れたものは、全てが凶器になる。つまり我にとっては、お前たちに血を流させる前に、生きたまま動けなくする。それから罪と寿命を喰うのが最良だ。しかし我は、お主には
「お前は、いつでも簡単に僕を殺せると思っているから」
『ハズレだ』
二郎は左目を閉じた。
狐の声は、右の方から聞こえている気がする。
『我はお主を舐めてなどいない。命取りになるからな』
「じゃあ、何故?」
『愛おしいからじゃよ』
次は左方向に不快な気配を感じた。
『ほら、人間の命は短いだろう?』
今度は上から。
……いや、違った。
『その短い時間の中で、友をつくり、夢を追い、恋をする』
『旅に出る者もいれば、愛する者と暮らす者もいる』
『それに比べて、お主の哀れなことよ』
狐は、
まるで分身したかのように四方八方に散らばり、それらが順番に喋っているのだ。
「……僕は哀れなのか?」
『お主は病弱ゆえ、他の人間より早く死ぬだろう。ただでさえ他人よりも短い人生なのに、7年も外に出なかった。やっと太陽の下に出てきたかと思えば、その貴重な時間を我のために費やしている。なぁ、皆はこれについてどう思う?』
次の瞬間、周囲は一斉にざわめいた。
『うん、うん。こいつは哀れだ』
『だって自らの生き方を選べないのだから』
『有無を言わさず戦わされる。幼い頃から、ずっとそうだった』
『近衛の家を守るために縛られる』
『強者ゆえに縛られる』
『弱者どもは自由に生きているというのに』
『それの何と哀れで滑稽で、愛おしいことよ!』
『我は強い人間が好きじゃ。幸が薄い者はもっともっと好きじゃ!!』
『『『きゃははははは!!!!』』』
分身たちは
二郎は、左の瞼と口を同時に開けた。
「……お前は間違っているよ。何故なら、僕は幸せ者なのだから」
『『『はあ?』』』
「お前の言う〝ただでさえ他人よりも短い人生〟の中で、僕はあの人に会えた」
静かな反論に、五月蝿い木霊は一瞬で止んだ。
『〝あの人〟だと?』
「……とても不思議な巡り合わせだった」
『そいつは誰じゃ? お前が屋敷に連れてきた娘か?』
「あの人は口も態度も目つきも悪くて、素行も決して良くなくて」
『…………。娘のことではなさそうだな。では誰じゃ?』
「そしてすごく無愛想な人だった」
『いや、お主がそれを言うなよ』
『てゆうか、誰のことを話しておるのじゃ?』
口々に問う分身たちを、二郎は全て無視する。
「でも慣れると、たくさん笑う人だった。ケラケラ笑いながら、基本的に僕には失礼なことばかり言ってきた」
『だ、か、ら! 現時点で全く褒められていないその人間は誰なのか? と訊いておるのだ』
「ひねくれ者に見えて、僕の弟のように世話焼きだった。
『……お主が他人に対し、そんな風に言うなんて初めてだな。面白い』
分身たちは再びクスクスと笑い始める。しかし〝面白い〟と言ったわりに、さっきよりも笑い声がぎこちない。
狐は、明らかに苛立っている。
……もうすぐだ。
「自分自身も決して強くはないのに、自分よりも弱くて小さな存在を、必死に守っている人」
『ーーっ、誰なのか答えろと言っておる!』
「とても温かい人だったよ」
『そいつの人となりはどうでもいい!』
『名前を教えろ!』
『答えろ!』
『答えろ!!』
『答えろ!!!!』
『答えろ!!!!!!』
二郎は、自身の右手を一瞥した。手首から出ている血は、山に入った時から握っていた短刀へ流れていた。銀色の刀身を縦に裂くように、赤の線が伝っている。
「……なぁ、狐」
『『『あぁ!?』』』
「最近は、お前のことよりも、あの人のことについて考える時間が増えたよ」
『『『ーーーーーーっ!!』』』
強い風が生まれた。
二郎の左右と前後で発生した風は頭上に集まり、風圧を伴う塊となり、背後に勢いよく落ちてくる。
『許さない……っ、許さない許さない!!』
声が1つになった。
分身たちが狐の本体へ戻ったようだった。大木を薙ぎ倒し、岩をも飛ばしそうな怒りと気迫を背中に感じる。
釣れた。
二郎は短刀を瞬時に逆手持ちにし、後ろへ振り返った。狐は手が届く距離まで迫っており、刃先を思いきり突き刺した。
『がはっ……!』
短刀は、狐の左胸部に刺さった。
二郎は狐の首を掴み、凸凹した地面に押し倒し、逃がさぬよう覆い被さる。
ようやく見えた狐はいつもの姿ではなく、人間に化けていた。長い白髪に赤い瞳、白い桜が描かれた薄桃色の着物に、紺色の袴。年頃は花と同じくらいの少女。
二郎は短刀を1度抜いて、間を置かずに同じ箇所を刺した。それから抜いて、刺して、抜いて、刺して、抜いて……を繰り返す。そのたびに狐の胸から鮮血が噴き出し、狐と二郎を汚した。
暗い山の中、顔に包帯を巻いた男が少女を延々と刺す光景は、殺人鬼が出てくる小説のワンシーンのようだった。
しばらく経って、二郎の手が止まった。
狐が死んだからではないし、体力が尽きたわけでもない。〝無駄〟だと察したからだ。
30センチもある刀身で心臓を何度刺しても、狐からは死の気配が感じられないのだ。
「……お前、どうやったら死ぬの?」
乱れた呼吸を隠して、二郎は独り言のように呟いた。
狩りを再開してから、狐にとどめをさす機会が何度かあった。
前回は弓矢を使い、脳が飛び出るほど頭を割った。その前は刀で首を落とした。さらにその前は上半身と下半身を切断した。
それでも狐は死ななかった。
〝今日はこれくらいで見逃してやるわ〟と、ぬかしながら毎回逃げていくので、深刻な傷を負っているはずなのに、決して息絶えることはないのだ。
父は狐との戦い方を教えてくれたが、殺し方は教えてもらっていない。
父とて知らなかったからだ。これまで狐を殺した討ち手がいないため、思いついた方法を実験的に試していくしかない。
『誰なのじゃ……?』
薄い胸に短刀が刺さったまま、狐は
『そ、そいつが好きなのか? 愛しているのか……っ!?』
「……知ってどうする?」
『決まっている!! お主の目の前で殺してやるわ!!」
大声を出した後、狐は激しく咳き込んだ。4度目の咳で吐血が混じる。
無感情に見下ろしてくる二郎を、狐は苦しそうに見返した。
『我以外の者を思うなど、許さないからな……っ』
「……嘘だよ。そんな人は、いない」
『は?』
「お前を誘き出すための嘘に決まっているだろう?」
ほぼ毎日、狐に会うようになって、二郎は知った。狐も狸も人間の心を掻き乱す言動をするが、両者には違いがあった。
狸は
対して狐は、ただ言いたいことを言っているだけだ。何の計算もせず、飾り気のない本心を好きに喋っている。つまり、単純なのだ。
自分に執着する狐の本体を探し当てるよりも、その単純さと嫉妬深さを利用する方が早いと、二郎は思った。だから話したくもない相手と会話した。
『……う、嘘なのか?』
「あぁ、嘘だ」
『はぁ、はぁ……っ、それにしては妙にリアルな人間像だったが……?』
「……そんな人間が実際にいるものか」
『ぐぅ……! 本当だな? 実はお主の親しい友人とかいうオチではないのだな?』
「……お前、僕に友達がいると思うか?」
『こ、この状況で、よくもそんな答えづらい質問を……、うああああっ!!』
二郎が短刀をゆっくり引き抜くと、狐は初めて悲鳴をあげた。
「……さっき、お前をちょうど100回刺した」
返り血を浴びながら二郎は呟く。
「1000回刺せば、死んでくれるか?」
『試してみるか?』
狐が微笑んだ。赤い両目を細め、耳たぶに届きそうなほど口角を吊り上げて。
「安心しろ。僕が
『……それでいい。人間なんて優しくしてやった恩よりも、恨みつらみの方が深く残る生き物なのだから』
二郎は両手で短刀を握り、高く振りかざした。
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