言葉(前)
「あー、ドキドキする……」
近衛の屋敷の門前で、花はソワソワしていた。書店の亜麻屋で働きたいと思っても、1人で決められることではない。
(二郎さまに話さないと)
町から戻ってきた花はすぐに話したかった。でも二郎は出かけていたので、彼の帰りを門前で待っている。
「何も外でなくとも、部屋でお待ちになればよいのでは?」
隣にいる梟が言うと、花は首を横に振った。
「部屋でいても落ち着かないんです。勢いで決めちゃったけど、だんだん不安になってきて……。勝手に働きたいなんて言って、二郎さまに怒られないかな……」
「大丈夫です。そんなことで怒ったりしませんよ」
「でも」
「ではワタクシが、花さんが安心できるエピソードを教えましょう」
「え?」
「昔、二郎さまがジグソーパズルをしていたのですが……、完成間近のそれを、ワタクシがうっかり崩してしまったのです。しかし、あの方は怒らずに許してくれました。ほら、お優しいでしょう?」
「そ、そうなんですか」
「あと、あの方が並べていたドミノをワタクシがうっかり崩した時も、危ういバランスで重ねていた積み木をうっかり崩した時も、怒りませんでした。あぁ何と慈悲深いお方!」
(いろいろ崩されてる!? かわいそう!)
その時、鐘が鳴った。
13丁目では1時間ごとに鐘の音が鳴り響く。空を見ると、日が傾き始めていた。夜が近くなっている。
「……二郎さま、どこへ行っているんでしょうか?」
「うーん。ワタクシも聞かされていないのです」
花はふと思い出した。
「……そういえば私のお兄ちゃんも、行き先を言わずに出かける時がありました」
「ほお」
「1ヶ月に1回くらいだったかな。仕事が休みの日に、私を知り合いに預けて、出かけるんです。そういう時は、半日は帰ってないことが多かったです。……あ! もしかして!」
「どうしました?」
「もしかしてあれって、デートだったのかな?」
デートという言葉に慣れていなくて、花は気恥ずかしくなる。
(もしかして彼女さんに会っていたのかな?)
そう考えると、急に繋がるものがあった。
「お兄ちゃんは、未成年なのにタバコが好きだったんです。でもいつからか、パッタリ吸わなくなりました。……彼女さんがタバコを嫌いだったから、やめたのかな? なんて」
そうだとしたら少し複雑だ。
自分がどんなに言っても聞いてくれなかったのに、彼女のためならタバコをやめられたのかと思うと、なんとなく悔しい。
(お兄ちゃんだって好きな人がいたかもしれないよね)
そうだとしても、言えなかっただろう。
(私がいたから、お兄ちゃんには自由が無かった)
今になって思う。兄は、自分のためにどれだけのことを諦めてきたのだろう。何を選ばず、そして何を選べなかったのか。
(もっと早く気づけばよかった)
気づいていたら、兄は姿を消さなかったかもしれない。
「おかえり」
静かな声が、花の思考を止めた。
前を見ると、二郎が立っていた。音も気配も無かった。
「二郎さま! えっと、はい、ただいまです!」
先に帰っていたのは花だったが、そう返す。
「……こんなところで、何をしているの?」
「花さんは、二郎さまを待っていたのです」
梟が代わりに答えた。
「お話があるのです。そうですよね、花さん?」
「は、はい」
「……話って何?」
花は伝えた。今日、亜麻屋で起こった出来事を。
「朧さんと歌丸さんは、二郎さまの許可さえあれば良いと言ってくれました。午前中は錦さんと勉強して、午後から働きたいです」
「……どうして」
相槌も打たずに聞いていた二郎が口を開いた。
「貴女が働く必要があるの?」
梟が言ったように、二郎は怒っていなかった。
でも花は緊張して手が震えた。我が儘を言っているという負い目があるからだ。そういう場面では、彼の淡々とした話し方は冷たく聞こえてしまう。
「何か欲しい物があるの?」
「……はい」
「じゃあ言ってくれたら」
「ち、違うんです、そうじゃなくて」
欲しいのは〝物〟ではなくて、それを買うための〝お金〟だ。
「自分のお金で買いたい物なんです」
この人に、お礼がしたい。
衝動的に働きたいと思った1番の理由はそれだ。
だけど町からの帰り道を歩きながら、花はじっくりと考えた。そして、自分の中に他の理由もあることに気が付いた。
「お兄ちゃんの気持ちを知りたいんです」
錦が部屋からいなくなると、花はたいてい1人で時間を過ごすことになる。すると新しい生活に対して、新鮮さと同時に焦りを感じるようになっていた。
「私だけが勉強を教えてもらって、温かいご飯ときれいな部屋を与えてもらって……。こんなに恵まれた環境で、本当に感謝しています。だけど恵まれているからこそ、お兄ちゃんのことを考えちゃって……。美味しいものを食べるたびに、お兄ちゃんは何を食べているかなって。ふかふかの布団に入るたびに、お兄ちゃんはどこで寝ているのかなって」
あなたが私に優しくしてくれるたびに、お兄ちゃんは誰かに優しくしてもらえているかなって。
「お兄ちゃんは1人でも生きていける。……それでも、お兄ちゃんがどんな風に生きているか分からない。だから、私だけが何の苦労もせずにいるのがイヤなんです」
「……貴女は子供なのだから、それで良いと思うけど」
「お兄ちゃんも、子供でした」
たまたま、花より先に生まれただけ。たったそれだけで兄は〝守る側〟に、花は〝守られる側〟になった。
「ほんの少しでもいいから、お兄ちゃんの気持ちに近づきたいんです」
「……」
「も、もちろん、勉強もやります!」
「……」
「ダメ、ですか?」
「……あまり賛成は出来ない」
「!」
花は言葉に詰まった。二郎も何も続けなかった。
場がシンと静かになって、自分の心臓の音だけが花には聞こえた。
後悔した。やっぱり勝手だった。自分は調子にのっていたのではないかと恥ずかしくなる。
「す、すみませんでした」
咄嗟に謝った。
「……何故、謝るの?」
「あ、その、我が儘を言ってしまって……」
花の頬は、カァっと赤くなっていた。二郎から逸らした瞳は、傷ついたように揺らいでいる。
次の瞬間、
〝なぁ、もう少し喋ったらどうなんだい?〟
二郎の脳裏に、さっき狸に言われた言葉がよぎった。
知らない町で唯一頼れる人間がそんなに無口だと、不安じゃないのかねぇ
喜怒哀楽を出すのが苦手なら、せめて言葉の数を増やしてごらん。
「……我が儘を言われたとは、思っていない」
花がハッとして二郎を見る。
今度は二郎が、花から視線を外した。
「賛成したくないのは、花のことが心配だからだ」
「……え?」
「花が、屋敷の外にいることが心配だから。危険なことに巻き込まれないか、不安だから。目が届く場所にいてほしいから」
「二郎さま……?」
「もしも花の身に何かあれば、
「っ!!??」
花の顔がますます赤く染まった。心臓の音はさらに大きくなり、身体のあちこちが熱くなっていく。
(あ、あれ? 何か今日の二郎さまって)
いつもと様子が違う気がする。
(こんな感じだったっけ? いや普段よりも、よく喋っているような……?)
「……だけど」
二郎が、視線を花へ戻してきた。
「花がやりたいことを制限したくはないとも思っている」
「!」
「亜麻屋で働きたいのなら、そうするといい。朧さんはいろいろなことを教えてくれるし、きっと良い話し相手にもなってくれる」
「……あっ、ありがとうございます!」
花は頭を下げた。
嬉しかった。
働けることも、二郎の言葉も、全部が嬉しかった。この人は、自分のことを本当に大切にしてくれているのだと分かって、胸がじんわりとした。
「……それにしても驚いた。まさか、花が亜麻屋で雇われるなんて」
「え?」
「朧さんはともかく……、ご主人は僕を嫌っているのかと思っていた。彼、僕を見るたびに気絶するから……」
(その光景があっさりと目に浮かぶ!!)
「……いつから働くの?」
「明日もう一度町へ行って、相談してきます。もちろん錦さんとの勉強が終わってから! 本当に勉強はサボりませんから!」
「うん。それが良い。晴殿もそう望んでいると思うから」
「……」
花は不意に尋ねてみたくなった。
「二郎さまは、お兄ちゃんと10丁目で会ったことがあるんですよね?」
「あぁ。3年前に」
「その時のお兄ちゃんって、どんな感じでしたか?」
「……」
数秒、思い返しているような間が流れた。
「……10丁目の北側に、使われなくなった教会があるのを知っている?」
「はい。家から遠いから、ほとんど行ったことがありませんが」
「晴殿は、そこの前であぐらをかいて、タバコを吸っていた」
(うわあああ、その光景も目に浮かぶ! ガラ悪っ……!)
「未成年が堂々と喫煙している姿を初めて見たから、驚いた」
花は慌てて両手をぶんぶん振る。
「お兄ちゃんがタバコを吸っていたのは昔の話で、その後はちゃんと禁煙したんですよ!? ……あ、そういえば二郎さまは、タバコは吸いますか?」
「吸わない」
「ですよね! タバコってイヤですよね! 身体に悪いし、煙は臭いし! 」
「それもあるけど……、火が苦手だから」
二郎が、顔の包帯を指差した。
「昔、火傷したんだ」
「……そうだったんですか」
包帯の原因は気になっていたが、触れてはならないことのような気がして、花は誰にも訊けなかった。
「どんなに小さくても、火を見るといまだに落ち着かない。だから、タバコも好きじゃない」
「…………」
あれ?
花は固まった。
(二郎さまとお兄ちゃんが10丁目で会ったのは、3年前。……確か、お兄ちゃんがタバコをやめた時期も3年くらい前だったような……)
兄が1ヶ月に1度、行き先も言わずにどこかへ出かけるようになったのも、3年前からだ。
兄に恋人がいたかは分からない。
別の誰かに会っていたのかもしれない。
誰に会っていたのだろう?
〝彼女さんがタバコを嫌いだったから、やめたのかな? なんて〟
さっき、梟に言った自分の言葉が脳内に甦る。
(もしかして、お兄ちゃんがタバコをやめたのは、)
会いにいく相手が、火が苦手な人だったから……?
(違う)
花はすぐに否定した。
(そんなはずない。お兄ちゃんとは友達じゃないって、二郎さまが以前に言っていたもの。友達でもない人のために、お兄ちゃんがタバコをやめるはずがない)
2人が頻繁に会っていたはずがない。
そう言い聞かせて、考えを止めた。
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