薄荷
あれはいつからだったのだろう。
兄の身体から、煙と
「タバコって、20歳になるまで吸ったらいけないんだよね?」
当時10歳だった
細い体に、少し大きなツナギの作業服を着た少年の名は〝
晴の右手には、1本のタバコがあった。
「今日、学校で先生が言ってたよ。子供はタバコを吸っちゃダメだって。……お兄ちゃんってまだ17歳だよね?」
晴の表情が、不機嫌そうに変わった。
見るからにガラの悪い少年だった。短い茶髪は崩れ、耳は両方ともピアスだらけ。小さな顔に絆創膏が2枚と、首筋にガーゼが1枚が貼られている。
眉間に皺を寄せ、刺すような視線を向けてくるが、花は知っている。こういう時の兄は怒っているわけではない。
うわ、めんどくせ。
と、思っているだけだ。
目つきが悪いのは生まれつきだし、怪我をしているのは知り合いのケンカを止めたから。なので花は、かまわずに続ける。
「お兄ちゃんは毎日吸ってるよね? 子供がタバコを吸うと警察に捕まるんだよ!」
「ちっ……。余計なこと教わりやがって」
「余計じゃないもん! 生活指導の先生が〝大切なこと〟だって言ってたもん!」
「生活指導? あー、あのゴリラみたいなオッサンか」
「先生のことをそんな風に言ったらダメだよ!」
「いやゴリラだろ? いかついし、デカイし、ケンカ強いし。あいつ、俺が学校に行ってたころからいるぞ」
「って、話がズレた! とにかくお兄ちゃんは子供だから、タバコはやめないといけないんだよ!」
「俺はもう働いてるから、ほとんど大人なんだよ」
「子供だよ! 警察に見つかって、捕まったらどうするの!? お兄ちゃんが犯罪者になったら、私がいじめられるんだからね!? それに火事が起こるかもしれないでしょ!?」
花は初めて知った。タバコが身体に悪いことを。清々しい薄荷臭を持つ煙に、どれだけの害が含まれているのかを。
恐れているのはいじめでも火事でもない。タバコのせいで、兄が死ぬことだ。父親も母親もいない花にとって、兄だけが家族だ。兄を失うと1人になる。それが怖くてたまらないのだ。
「わ、私にはいつも〝悪いことはするな〟って言うくせに、自分はやってるじゃない。そんなの、おかしいよ……!」
ジュッと、短い音がした。
窓の淵に置いてある灰皿に、晴がタバコを落としていた。
「俺が言ってんのは、周りの人間に迷惑かけるなってことだ。タバコ吸うだけなら、誰にも害は無いだろ?」
「あるよ! 『ふくりゅーえん』っていうものが、周りの人に『あくえいきょう』を与えるって、聞いたんだから!」
「……マジで要らねぇ知識ばっか覚えやがって」
「要らなくない! ……せ、先生はお兄ちゃんのことを、まだ覚えているんだよ? 今日だって私に『兄ちゃんは元気か?』って訊いてきたんだから。……お兄ちゃんがずっと前からタバコを吸っているなんて、私はとても言えなかったよ……」
晴は言い返してこなかった。ただ無言で灰皿を眺めている。汚水が入ったそこには、ふやけたタバコが何本も浮かんでいた。
沈黙に耐えられなくなったのは、花の方が早かった。
「ねぇ、やめようよ。私、タバコ嫌い」
「分かった。やめるよ」
「えっ! 本当に!?」
「あぁ。その代わり、お前の成績が上がったらな?」
花はカッとした。
晴が意地悪く笑っていたのだ。こういう時の兄の表情は、自分をからかっている証拠だ。
「もう! ふざけないで!」
「ふざけてねーよ。可愛い妹がテストで100点採ってくれたら、兄ちゃんも禁煙がんばれるかもしれないぜ?」
「そうやって誤魔化して……! つまりお兄ちゃんは、一生禁煙する気が無いのね!?」
「え、ちょっと待て。つまりお前は、一生100点採る気が無いのか……?」
「だって私に採れるはずがないでしょう!?」
「胸を張って言うな」
「もう怒った! こうなったら先生に明日言いつけてやるからね!」
「何でそうなるんだよ……」
「お兄ちゃんのこと叱ってもらうの! 先生が怒ったら、すっごく怖いんだからね!」
「はい残念。兄ちゃんは生活指導のゴリラなんて怖くありませーん。何故なら兄ちゃんは大人だからですー。でもあれだぞ、絶対言うなよ。もしチクったら泣かすぞ」
「言ってることがクラスの男子と変わらないんだけど!? やっぱり子供じゃん! お兄ちゃんのバカー!」
結局。
晴がタバコをやめたのは、この会話をしてから1年ほど経ったころだった。
兄に染み付いた薄荷の匂いが薄くなり、徐々に消えていった。そのことに、花は心底ホッとしたのだった。
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