西の森
13丁目西側にある広い森は、狸の縄張りだった。
奥まで行くと、鬱蒼と立ち並ぶ木々がぽっかり開いた所がある。
陽の光が差し込むその場所で、狸はご機嫌だった。大きな右手の小指にやかんを引っかけて、左の手のひらには湯呑みを乗せている。それらを、歪な形をした切り株に置いた。
ついさっき、珍しい客が森に入ってきた。
普通の人間なら迷い込んでしまう森だが、その客は狸までたどり着いた。
「いらっしゃい」
狸が声をかける。
木と木の間から現れたのは、黒色の着流しに同色の羽織を肩にかけ、顔に白い包帯を巻いた男。
「次男坊、待っていたよ」
7年前、狸が生かした人間だ。
死んでもおかしくない火傷を負いながらも、無事に生き延びた。
そして狸の予想通りこの人間は……、近衛二郎は成長と共に狐と同じくらいの力を持った。そして狐は彼に執着するようになった。
「今日は、狐を殺しに行かないのかい?」
「……行った。だけど、いなかった」
静かなのに、不思議とよく聞こえる声。
「あいつも歳だからねぇ。お前さんの相手を毎日やるのは疲れるのかもねぇ。ささ、そこに座りなよ」
狸は切り株の横に座り、自分の向かい側へ二郎を促す。畳も床も無いけれど、草の上には座布団が敷かれていた。
二郎が座ると、狸は嬉々としてやかんを傾けた。
高い位置から赤っぽい色の液体が注がれ、湯呑みからけっこうな量が溢れる。狸はかまわず差し出す。
「お茶でもどうぞ」
「……いただきます」
受け取って、二郎は口に含んだ。狸がにんまりとした笑みを浮かべる。
「くくく、俺が淹れたお茶をそんなに気軽に飲んじゃって。変な薬でも入っていたらどうするんだい?」
「……」
二郎は答えない。
代わりに、もう一口飲んだ。
「ずいぶんと信頼してくれているんだねぇ」
お前さんの命を救ったことに、今でも恩を感じてくれているのかい?
そう言おうとしたが、やめた。
早く
「嬉しいねぇ。お前さんの兄と弟にも言っておくれよ。〝狸にもっと優しくしてやれ〟ってさ。特にお兄ちゃんの方な」
「……兄さんも三郎も優しいよ」
「そうかねぇ? 俺はこの前、こっぴどく振られたよ?」
狸は切り出した。
「〝娘のことを一緒に調べよう〟って誘ったのにさ、冷たく追い返されちまったよ」
二郎が湯呑みを切り株に戻した。人間よりもずっと背が高い狸を見る。
「やめてほしい」
「んん?」
「あの子に関わらないでほしい」
淡々とした口調が紡ぐ言葉は、予想通りのものだった。
「やはりその件で来たのかい。俺が近衛の屋敷に行ったことを、兄から聞いたんだね。そうか、そうか。確かに優しいお兄さんだねぇ。それにしてもお前さん、つい数日前まで引きこもりだったのに、あの娘のことになると行動力が上がるねぇ」
「あの子には家族がいる」
くつくつ笑っていた狸が止まった。
「僕はその家族に一度会ったことがある」
「ほお。どこで?」
「外の町で」
「いつ?」
「数年前。そのときに世話になった」
「世話に? 何をしてもらった?」
「落とした財布を拾ってもらった」
「ほお」
「……」
「…………。え、その話、もう終わり?」
「終わり」
「早っ! ……ふむふむ。まぁ、つまりアレか。あの娘は、恩人の家族。だから面倒を見てやっているということか?」
二郎が頷いた。
狸は腕を組み、眉間に皺を寄せ、
「うーーーーん……」
と、唸った後、
「ちょっっっっっっと、動機が弱いんじゃないかねぇ?」
ぐいっと身を乗り出してきた。
巨体が切り株の表面を覆い、やかんは腹の贅肉に飲みこまれる。
周囲の木々が急にざわめき始めた。風はまったく吹いていないのに、葉と葉が擦れる音が響く。あちこちから鳥が慌てたように飛んでいった。
「うんうん、俺は知っているよ。お前さんが受けた恩を大切にする性格だってことを。だけどさ、落とし物を拾ってもらったくらいでーー、それくらいのことで恩返しなんてしていたら、お前さん生涯でどれだけの奴を助けるつもりなんだい。 しかも! あの怖い兄さんに逆らってまで、娘を屋敷に住まわせてあげてさぁ。そんな言葉で俺が納得すると思ったのかい? いや、もっと
見上げてくる左目を、真っ直ぐに見返す。
「どうせ答えてくれないだろうねぇ。お前さんが教えてくれないから、こっちは勝手に想像するしかなくなるんだ」
狸は両腕を広げた。
「娘が初めて13丁目に来た日、俺はこの森に拐った。食おうとした。そしたら、お前さんが現れた」
あの日から不思議に思っていた。
「随分とタイミングが良いじゃないか。13丁目に人間が来ること自体が珍しいのに、ずっと屋敷に引きこもっていたお前さんまで出てくるなんてさ。そもそも俺の食事を邪魔するなんて、今までは無かっただろう」
近衛は昔から、狸が人間を食うことを咎めていない。
山に入れば、熊に襲われる可能性がある。
海に入れば、鮫に襲われる可能性がある。
それと同じで、この町に入るのであれば、狸に食われる覚悟をしなければならない。
全ては、危険な場所に立ち入った者の自己責任。それが一族の考えだった。
そうやって狸と共存していたはずなのに。
「お前は、あの娘が13丁目に来ることを、
黒い毛と長い爪の生えた狸の指が、二郎の喉元をさした。薄い皮膚に、刃物のような爪先が軽く突き立てられる。
「そうなんだろう? 知っていたからこそ、娘の命を助けることが出来たんだ。じゃあ何故知っていたんだろう? 誰かがお前さんに教えたのだろうか? それは誰だろう? ……娘の家族か?」
狸の声が大きくなった。
それに呼応するように木々がますます揺れる。枝から振り落とされた複数の葉が、両者の間をハラハラと横切った。
「お前さんは、娘の家族と何らかの接点がある。財布を拾ってもらった以外の接点があるんだろう?」
「……」
「その接点とは一体何なんだい? どうして娘をそんなに大切にする? お前はロリコンか? いや、実はお前さんにとって大切なのは、娘の家族の方かい? 〝一度会ったことがある〟と言ったが、本当に一度きりなのかい? 何か大切な秘密でもあるのかい? 俺がもしも、娘の家族を探したら不都合かい? お前は何を隠しているんだい?」
「…………」
「何とか言えよ、次男坊」
包帯と包帯の間から見える口と左目。爪先に感じる首の皮膚。そのどれも動かない。
狸は、指の力を少し強めた。それでも微動だにしなかった。
「じゃあ取り引きでもするかい? 俺がこれまで出した質問に、1つでもいいから答えな。そうしたら考えてやるよ。娘のことを調べるか、それとも手を引くかをね」
「……本当に?」
〝お?〟と狸は驚いた。
「答えたら……、あの子と、あの子の家族に手を出さない?」
意外だった。
どうせ無視されると思っていたのに、二郎は取り引きに乗ってきた。思わぬ展開に目が丸くなりそうなのを堪え、狸は笑った。
「全てはお前さん次第だよ」
「……分かった。言おう」
「はは、こいつは楽しみだ。一体どれに答えてくれるのか」
「僕はロリコンじゃない」
二郎が言った。
ふざけている感じでも、おちょくっている風でもなく、いつも通りの抑揚のない声音で。感情が読めない無の顔で。
偶然なのか、あれだけ揺れていた木と葉がピタリと止んだ。
狸は、今度は目を丸めるのをやめられなかった。
「お前はロリコンか? と言われたけど、ロリコンじゃない」
「……うん。まぁ確かに訊いたけどさ、1番どうでもいいところっていうか……」
「どうでもよくない」
「え、もしかしてロリコンって言われたの気にしてるの? って、いやいやそうじゃなくて。俺としてはもっと別の質問に答えてほしいんだが……」
「答えるのは1つでいいと、貴方は言った」
「2つって言えばよかった」
狸はため息を吐いて、地面にドカッと座った。反対に二郎は立ち上がる。
「……今日はもう帰る」
「あー、そうかい。微妙な情報だけを残して、お前は帰ってしまうのかい……」
「お茶、ごちそうさま」
「……」
背を向けて歩き出そうとする二郎を、狸は呼び止めた。
「なぁ、もう少し喋ったらどうなんだい?」
二郎が振り返る。
「お前さんの弟はとても分かりやすい。お前さんの兄は無愛想だがよく喋る。お前さんは何も分からん。分からんから、気になるんだよ。その頭で何を考え、心で誰を思うのか」
「……」
「あんまり寡黙が過ぎると、いつか大事なものを失うぜ?」
「大事なものを、失う……」
特に反応は期待していなかったのだが、二郎は狸の言葉を繰り返してきた。
「くくく、そうだよ。例えばあの娘。知らない町で唯一頼れる人間がそんなに無口だと、不安じゃないのかねぇ」
「……あの子も三郎も、よく表情がころころ変わる」
「だねぇ」
「僕はそういうのが得意じゃない」
「喜怒哀楽を出すのが苦手なら、せめて言葉の数を増やしてごらん。一言二言足すだけで変わるものはあるよ」
「……そういうものだろうか」
「まぁ喋りすぎたら嫌われるけどね」
「……」
「あとさ、本当にこのまま帰るのかい? 俺を放っておいていいのかい? 娘に危害が及ぶかもしれないよ」
「貴方のことは、信じている」
「光栄だねぇ。うんうん、じゃあさっきの取り引きについては、きちんと考えておくよ」
考える
考える
狸は、そこは口にしない。
「また森においでよ。俺は退屈なんだ」
「僕が来ても、貴方の退屈は紛らわせないと思うけど」
「そんなことないさ。お前さんは俺を楽しませてくれるって、期待しているよ。だから助けたんだよ」
「……期待されるのも苦手だ」
「おやまぁ」
二郎が、今度こそ歩いていく。
狸は見送る。
「……なぁ、次男坊。俺も狐も長く生きすぎた。本当に退屈でたまらないんだよ」
人間から貰って嬉しいのは〝信頼〟じゃない。
〝刺激〟だ。
耳が草履の音を拾わなくなるまで、狸はずっとずっと見送っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます