7年前

「子供は生きたまま帰してやりな」


 7年前のある日のことだった。

 大樹の太い枝に巨体を乗せて、狸はそう言った。


 眼下には悲惨な光景が広がっていた。


 人間が1人、死んでいる。


 死体は、大人の男だった。大柄な体躯に僧侶のような黒い服を着ている。

 彼を中心にして、辺りには血が飛び散っていた。山の多くの木々は薙ぎ倒され、折り重なるようにして転がっている。獣は逃げ、草花は散っている。まるで嵐が去った後のように荒れ切っていた。


 男は、空へ向いた状態で絶命していた。すぐ側には、彼の持ち物だったと思われる刀と、そして同じような服装の少年が1人。

 少年は生きていた。死体の頭元で、何も言わずに立っていた。


 ここは狐が住処としている東の山だ。山の近くを偶然通りかかったところ、狸は異様な空気を感じとった。気になって来てみたら、この状況に出くわした。


 死体の近くに座る狐が、狸の方へ向く。


「このガキを殺すなと?」


 子供のような声質に似合わず、狐は土と血でぐちゃぐちゃになっていた。特に血の汚れがひどく、真っ白の身体を染めているのが返り血なのか、狐自身の出血なのか分からない。


「父親は殺したんだ。それでもう充分だろう?」


 気怠そうに首を傾げる狐。


「狸よ、お前はいつから近衛の味方になったのじゃ?」

「味方というわけじゃないよ。ただね、お前さんは狐火を使ってその子供の顔を燃やした。命まで取らずともいいじゃないかって思ってねぇ」


 少年の顔もまた、悲惨なことになっていた。


 狐に焼かれた顔は黒でも赤でなく、白に変色していた。熱傷が皮下組織まで及んでいるときの症状だった。顔面の左側は比較的無事だが、右側の皮膚は歪み、目は潰れている。


 狸は思う。あの火傷は近衛の治癒の術でも治せない。右目の視力は戻らないし、火傷の痕は一生残るだろう。記憶では、とてもキレイな顔をした子供だったのに。


 神経が熱に冒されているのか、少年が痛がる様子は無い。むしろ無傷であるかのように静かだった。

少年は残った片目で死体をーー、父親を見ている。


「この親子は我の縄張りである山に勝手に入り、我を殺そうとした。だからり返した。何か悪いか?」

「お前さんは近衛の縄張りに勝手に入って、近衛の一族を食べている。だから報復として命を狙われるんだよ」

「こいつら美味いからのう」


 外の世界を追われて、身内との近親婚を繰り返す近衛家。同じ血が流れる者と交わり、子孫を残す。

産んだ者も産まれた者も罪を背負う一族。


 人間の〝肉と命〟を喰らう狸は、近衛が持つ〝妖を討つ力〟が煩わしくて滅多に近寄らない。

 しかし狐は違った。人間の〝罪と寿命〟を喰らう狐にとって、この一族は魅力的な食物だった。


 狸に肉を喰われると、そのまま命も失う。そうやって肉と命が連結しているのと同じで、罪と寿命も繋がっている。人間の罪を食うと、その人間の寿命も共に減るのだ。何故なのかは狐にも分からないが、腹さえ満たせればどうでも良かった。


「父親の寿命を全部食っちまったなんて、もったいないねぇ。あと数年分くらい残しておいたら良かったのにさ」

「もう飽きたからのう」

「飽きた?」

「近衛の者と遊ぶのは飽きた。ずっと昔から、数え切れないほど我を殺そうとしておるくせに、どいつもこいつも結局はこうやって死んでいく。その繰り返しにもう飽きたから、さっさと殺すことにした」


 狐の細い目が、狸から少年へ移った。


「おい、そこのガキ」


 少年が反応を示すまでに、数瞬の間があった。

 左の片目がゆっくりと亡き骸から離れてゆく。


「狸がお前を殺すなと言っておる。どうじゃ、お前は生きたいか?」


 少年は狐と視線を交わしたが、答えはしなかった。


「生きたければそう申せ。ほら、無様な人間らしく命乞いをしろ」


 やはり返答は無い。


「どうした? もしかして、自分の父親が目の前で殺されたショックで口がきけなくなったか?」

「ーー」


 少年の口がようやく動いた。

 わずかに開いたそこから出てきたのは声ではなく、息だった。

 短い息だった。

 奇妙な音がする息だった。

 呼吸の間隔は早くなり、どんどんと乱れ、肩が上下に揺れる。胸を抑えた手は震え、足は崩れた。

 土に膝が着いたのとほぼ同時だった。少年の片目から、涙が流れた。堰を切ったように、止まっていた時が戻ったかのように、涙はとめどなく落ちていく。


(あぁ、たった今、実感したのか)


 狸は察した。

 父親が死んだのに、やけに静かだった少年。子供にしては無口で落ち着いているのは知っていたが、こんな時でも感情を露わにしないことに内心で驚いていた。


(父親の亡骸を見ながら、こいつは一体何を考えているのかと思ったけど)


 何も考えてはいなかった。


 いや、何ものだ。


 少年はただ現実を受け止めていないだけだった。

 狐の言葉によって、やっと父親の死を理解したのだ。


「やめておけ。お前では仇討ちは出来んぞ」


 落ちている刀に手を伸ばす少年に、狐はさらに現実を突きつける。


「ーーっ、……!」


 少年が何かを言い返そうとしている。だけど言葉どころか、声にすらならない。


「喉が焼けたか。ならば息をするだけでも精一杯だろう? それ以上動くと、我が手を下さずとも死ぬぞ?」

「ーー、ーー……っ!!」

「やれやれ……」


 立ち上がることも出来ないくせに、刃先を向けてくる少年。

 狐が纏う空気は冷たい。


「冷静になれ。お前の父親が死んだのは、我よりも弱かったからじゃ」

「……っ、」

「そしてその父親よりも、お前は弱い」


 少年の目が見開かれた。


「だから父親を守れなかった。助けられなかった。仇討ちなど論外。今のお前が満足に出来ることは、そうやってメソメソ泣くことだけじゃ」

「ーーーー!」


 使い物にならない足を動かそうとして、土を蹴るだけの虚しい音が響く。無駄だと分かっているはずなのに、憎しみに支配された少年は、必死に狐を殺そうとする。


「もういい。お前は眠れ」


 そう言ったのは狐ではなく、狸だった。

 大樹から飛び降りて、力士のような体型のわりに軽やかに着地する。少年の背後にまわり、細い首に手刀を落とした。


 少年はうつ伏せで倒れた。もう意識はなく、ピクリとも動かない。


「こいつは俺が屋敷の近くまで戻しておくよ。いいかね?」

「そんなこと言うて、こっそりガキの肉を食うつもりか?」


 細い目をもっと細くした狐に、狸は笑った。


「くくく、違うよ」

「嘘じゃ。だってお前、子供が好きだろう?」

「好きだけどね、今回は好意じゃないよ。好奇心だよ」

「は?」

「今は並だが、こいつは大人になれば強くなるよ。お前さんは強い人間が好きだろう?」

「……こいつが強くなる保証は?」

「この父親は、弱い者を狩りには連れてこない。なのに、この次男坊だけはいつも連れて来ていた。ってことは見込みがあるからだよ」

「……」

「もったいないよ。いつか遊び相手になれるかもしれない人間を殺してしまうなんて」

「そのガキが、我と対等になれると?」

「あぁ。そしたらそのガキに、お前さんは惚れるかもしれないよ」

「ありえんな。人間はつまらん生き物じゃ。子供の顔を燃やされた親がどう怒り狂うのか見たかったが、結局は死んでしもうた」

「じゃあ次は、親を目の前で殺された子供がどう生きていくのかを見ればいいさ」

「……」

「ねぇ、生かしてみようよ。いつまで経ってもこいつが面白くなければ、殺せばいい」

「……はぁ」


 狐が飽きたように目を逸らす。〝好きにしろ〟と小さく呟いた。


 狸は〝ありがとうね〟と返して、少年を持ち上げた。



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