芽生える
かき氷のシロップをかけたような青空に、いちごの綿菓子をちぎったような雲が散らばっている。
広い通りの両脇に並ぶ、たくさんの店。
読めない文字が書かれた看板に、店先に並ぶ用途不明の品々。それを売るのも買うのも、獣の耳と着物姿が特徴的な妖たち。
今日も13丁目は不思議な喧騒に包まれている。
妖の波をかき分けて進んでいくと、この町で唯一の書店〝亜麻屋〟に着いた。
店は年季の入った古民家風の建物で、遠くからだと商店だと分からない。
花はガラス戸に触れる。控えめに動かしたが、錆びた音が大きく響いた。
「……こんにちは」
店の中を覗く。
誰もいなかった。
室内の壁面は、戸がある箇所以外は本棚で埋め尽くされている。窓がない空間は薄暗くて、紙の匂いが溢れていた。
「留守でしょうか?」
花が尋ねると、隣を飛んでいた梟が上へ向いた。
「
彼が話しかけている先は天井だ。よく見ると、天井には
見上げてから数秒後、そこが動いた。
「あら、いらっしゃい」
蓋を開けるみたいにパカっと持ち上げられ、明るい声が聞こえてくる。
声の主は鹿の角を持つ女性の妖、朧だった。
彼女は2メートル以上はある高さから躊躇なく飛び降りて、花と梟の前で着地する。短い灰色の髪と、角に付いたいくつかの飾りがサラリと揺れた。亜麻色の着物に健康的な小麦色の肌。向けてくる笑顔は声の通りに明るい。
「お迎えできなくて申し訳ありません。ちょっと2階の店で立て込んでまして」
花は思い出した。この店は1階で新しい本を、2階で古い本を売っていることを。
(確か二郎さまは古本をときどき買いに来るって言っていたっけ……)
花はどちらかというと読書が苦手だ。
あの人は一体どんな本を読むんだろうと考える。
「立て込んでいたとは、何かあったのですか?」
「実は修羅場があったんですよ」
「修羅場……!?」
心配そうな梟に、朧はさらっと言う。
「もう大変でしたよー。お2人が来るのがもう少し早かったら、どんぱちに巻き込まれてたかもしれません」
「どんぱちですと!?」
「えぇ。2階が戦場になってしまって、今ものすごく散らかってるんです。それを片付けてました」
「そんなに激しく争ったのですか……? はっ、そういえばご主人の姿が見えないようですが、まさか……!? いえ、やはり聞かなかったことにしましょう。ご夫婦の問題にワタクシが立ち入るのも無粋ですので……」
「いえいえ、違いますよ。うちと
梟と花は同時にギョッとした。
「何と!その不届き者はどこですか? ワタクシが懲らしめてやりましょう」
「ご安心を。歌丸が捕まえて、外に連れて行ってますから」
「侵入者って、酔っ払いですか? 強盗ですか? それとも変な薬のせいで幻覚が見えている人か、訪問販売を装った人攫い……!?」
「花さんの経験値が気になるわぁ……」
主が通う店に忍び込んだ輩に怒る梟に、治安の悪い10丁目で育ってきたせいで物騒な言葉が出てくる花。朧が笑いながら答えたとき、
「ただいまー」
引き戸の向こうから男性の声がした。朧が駆け寄って戸を開ける。
「おかえり。無事に帰ってきてくれて何よりやわぁ」
「おう。なかなか難儀やったわ」
朧と同じ鹿の角を持ち、亜麻色の生地の着流しを纏う男は、この店の主の歌丸だ。背が高くて顔立ちは整っている。朧の小麦色の肌と比べると、彼の首や手はかなり白かった。
歌丸は花たちの存在に気づいていないようで、目の前に立つ妻だけを見下ろしている。
「もう大丈夫やで。
「歌丸がおってくれて助かるわ。うちだけやったら、どうなってたか……」
「夫は妻を守るもんやからな」
「でも……、歌丸やって、ホンマは戦うのが苦手なのに……」
「気にするなって。お前のためなら、俺は何回でもゴキちゃんと戦うで」
(〝ゴキちゃん〟!? 侵入者って、もしかしてゴキブリのことだったの……!?)
心の中で突っ込んだ花の横で、〝あ、あの黒い悪魔が現れたのですか! おぞましい! 〟と、梟が震えた声音を出す。
13丁目にもゴキブリが生息すること。そして人間と同じように、妖たちもあの虫を恐れていること。花は微妙な発見をした。
「アンタも虫全般が嫌いなのに、いつも堪忍ね」
「謝らんでええねん。それよりもお前には褒めてほしいねん」
歌丸が、朧の肩に手を乗せた。
「俺もやる時はやるんやで? どうや惚れ直したか?」
「もう、そういうのはやめて。今はお客さんがおるんやから」
「ん? 客??」
歌丸の視線が動いて、花と目が合う。
すると、
「ぐはぁっ!」
端正な顔は秒で崩れた。さらに彼の体のバランスも崩れて、後ろへ倒れる。引き戸のガラスと後頭部がやかましくぶつかった。
「に、人間……!? 近衛さまのとこの……、しかも二郎さまの客人の……!」
白目でぶつぶつ言う歌丸には、もはや〝頼れる夫〟の姿は無い。
相変わらずの反応だ。以前もそうだった。
彼は、二郎を恐れているのだ。花はどう見てもただの子供なのに、二郎と関わりを持っているというだけで怖いらしい。
「花さんたちは教科書を取りに来てくれたんよ。ほら用意して?」
「そ、粗相したら封印される……。詰んだ……」
「またそんな失礼なこと言うて……。って、そうや! うちも二郎さんに渡したい物があるんやった!」
言いながら、朧は両の手のひらをパンと鳴らした。
直後、天井に付いた正方形の扉から
一体どういう仕組みなのか、そして2階はどんな造りなのか。花が興味深く眺めている間に朧は梯子を登り、そしてすぐに戻ってきた。さっきと同じように足でそのまま1階に着地する。降りるときは梯子を使わないらしい。
彼女の手には一冊の本があった。
「これを二郎さんに渡してほしいんですけど、ええかな?」
差し出された本を、花は考えるより先に受け取った。淡い緑色をした表紙に絵は無い。タイトルのような文字だけが、縦書きで短く書かれていた。
「おや? ワタクシたちは、お使いなど頼まれていませんが?」
「これはうちからの勝手な贈り物です。あの方の好きそうな本を見つけたから、ぜひ読んでもらいたと思って」
「っ! どんな本が好きなんですか?」
花は言ってからハッとした。無意識に訊いてしまっていた。
途端に恥ずかしさで顔が熱くなったが、
「優しい物語が好きなんやと思うよ」
朧は特に気にした様子もなくニコニコしていた。
「どんなに理不尽で残酷な世界でも、必ず救済がある。登場人物たちは途中まではかなりしんどいけど、最後には幸せになれる。あの方が読むのは、そういう物語が多いかな」
「……じゃあこの本も、幸せな話なんですか?」
「えぇ、ハッピーエンドや。
「え?」
「あくまでうちが読んだ感想ですけどね。ーーその物語の主人公は、苦しんだわりにあまり報われんかったんよ。だけど彼が報われなかったからこそ、他の登場人物たちは幸せな結末を手に入れられた。周りが幸福になるための条件として、主人公が〝大切なもの〟を犠牲にしないといけなかったーーっていうオチやね」
朧が本を見つめる。
「主人公が報われなかったことを、他の登場人物はまったく気づかない。何故なら、彼は自分の気持ちを完璧に隠しているから。彼の心の真実を知るのは、彼自身と読者だけ」
本を持つ花の手に、ギュッと力がこもった。
「……そんな、主人公がかわいそう……」
「うん。うちもそう思う。でも実際はどうなんやろうね?」
「?」
「その主人公ね、最後のシーンで笑うんよ。ものすごく優しい笑顔で。……もしかしたら彼が報われなかったなんてのは解釈違いで、本当はちゃんと幸せになれたのかも。彼は大事なものを諦めて手放してしまったけど……、その手元には何も残らんかったけど、それでも彼にとってはハッピーエンドなのかも。せやから、あの方にも読んで欲しい」
「……」
花はまた無意識に口を開いて、
「いいな」
そう小さく漏らした。
今度は朧がキョトンとしたので、花は慌てた。
「あ、すみません! その、二郎さまのことをよく知っていていいなって思って!」
「もう3年くらいの付き合いやからねぇ……。でも一緒に住んではる花さんの方が詳しそうな気がしますけど」
「……私はほとんど知らないんです。でもたくさんお世話になっているから、何かお礼をしたいと思っていて……。こんな風に、二郎さまが好きなものをプレゼントできるのが羨ましいなって……」
花には出来ない。彼の好みを知らないし、何より贈り物を買うためのお金が無い。
床で羽を休めていた梟が、花を見上げてきた。
「花さん。二郎さまからいただいたお金を大切に使いたいという貴女の気持ちは分かりますが……。ワタクシは別に使っても良いと思いますよ。貴女が欲しいと思う物を買うためのお金なのですから」
「だ、だめです。二郎さまのお金で、二郎さまへの贈り物を買うなんて、変です」
「そんなことはありません。考えすぎでございます。それに」
貴女から貰った物であれば、あの方はきっと喜びますよ。
梟はそう続けようとしたが、
「じゃあうちの店で働きます?」
朧の言葉に阻まれた。
目を丸くする花と梟。朧が店の出入り口である引き戸を指した。指先を辿ると、ガラスに貼った紙にたどり着く。
「うちの店、アルバイトを募集してるんです。でもまだ問い合わせが無くて。……聞いた感じやと、花さんは〝自分で手に入れたお金〟が欲しいんですよね? それやったら働いてみませんか? 自分で稼いだお金なら、二郎さんに堂々と贈り物が出来るやろうし。あ、もちろん花さんと二郎さんが良ければの話やけど」
「ちょっと待ったあああああああ!!!!」
壁面の本棚の1つが、まるで押し戸のようにこちら側へ開いてきた。その向こうには歌丸が立っていて、彼の後ろには部屋らしき空間がわずかに見える。ここにある本棚はドアのような役割もあるらしい。
歌丸の片手には教科書が握られている。奥の部屋で保管していたのを取っていたらしい。
「朧! 何を言いだすねん! この子は貴族さまの客人やで! そんな簡単に雇えるわけないやろ!」
「花さんがここで働きたくて、かつ、二郎さんの許可があればの話やで?」
「絶対アカンからな!? あー、もうお前はホンマに何てことを! 二郎さまってハピエン好きなんや意外やなって思ってたら……、でもその本の主人公は切なすぎやろ涙が出るわ! って思ってたら……、二郎さまに贈り物とか健気な子やなぁってしみじみ思ってたら、さらっと爆弾発言して! 油断してたわ!」
「本棚の向こうでがっつり話聞いてたんやね」
(……働く……?)
花には、夫婦の会話は聞こえていなかった。
(私が、働く?)
ドキドキした。アルバイトをしようと思ったことは何度もあるが、兄に止められた。
お前バカなんだからそんな時間があるなら勉強しろ、と言われた。
(そ、そうだ、私には勉強がある! ここにいる間も勉強をするって、二郎さまと約束したもん)
そう思うものの、〝働くこと〟に心が強く惹かれていた。
自分で稼いだお金。
堂々と贈り物を買える。
朧が言ったことが脳内で繰り返され、胸の鼓動はますます早くなっていく。
花は梟の方をチラリと見た。
「どうぞ、花さんが望むように」
予想外に、梟はあっさり頷いた。絶対に反対されると思っていたのに。
(もし私が、勉強とアルバイトをちゃんと両立させられたら、二郎さまもお兄ちゃんも許してくれるかな?)
すごく大変そうだ。それでも……!
「あの、やってみたいです!」
花の声に、言い合っていた夫婦がピタリと静かになる。
「働いたことがないので少し不安ですが……、それでもやりたいです」
「わぁ! ホンマに? 嬉しいわぁ」
「でも、人間の私でもいいんですか?」
「ウチは全然かまへんよ」
「っ! じゃあ私、二郎さまに話してみます!」
「って、せやからアカンって!!」
朧は喜んだが、歌丸は顔を真っ青にした。
「やめといた方がええですよ! 本屋ってけっこう重労働やし! 本って重たいし!」
「だ、大丈夫です。身体は頑丈です。私が生まれた町には狼みたいに凶暴な野良犬がいて、しょっちゅう追いかけられました。足腰は鍛えられていると思います!」
「本に使われてる紙にはときどき刃物みたいに鋭いやつがあって、触ったら手がぶしゅって切れるから! 危ないから!」
「怪我も慣れています! 野良犬にときどき噛まれたり、逃げている途中でよく転んでいましたから」
「子供の教育に悪いグロテスクな本も扱ってるし!」
「小さな頃から狂犬病にかかった野良犬を見てきたので、グロテスクな光景には慣れています!」
「野良犬で培われたスキル
いやアカン! 突っ込んでる場合か!
と、自らを律する歌丸。
(何としても断らんと……! 俺と朧の生活を守るために!)
歌丸は、妻を愛している。臆病な自分とは違って、大胆で快活な妻。彼女の爆弾発言には文化の違いを感じるけど、そしてかなり心臓に悪いけど、それでもかけがえのない存在なのだ。
平凡だけど暖かいこの日常に、脅威などあってはならない。自分たちを怖がらせるものなど、虫だけで手一杯だ。
「と、とにかくこの話は無かったことに……、」
歌丸がバッサリと切ろうとした瞬間だった。
目と鼻の先に、黒い物体が現れた。
それは上から出てきて、視界の真ん中で止まる。
「く、蜘蛛ーーーー!!??」
朧がこの世の終わりのように叫んだ。
苦手な虫と遭遇したときだけ、彼女は珍しく大声で騒ぐ。
そう、黒い物体の正体は、天井から糸をぶら下げている蜘蛛だった。
(おのれええええ、このややこしい時に出てきて!! 空気読めや! こっちの状況は無視か!? 虫だけに!)
歌丸は辺りを見回した。虫が大嫌いだが、武器があればギリギリ勝てる。本当にギリギリで、精神をすさまじく消費するのだが。
ダメだった。周りに見えるのは本だけで、戦えそうな物が無い。このままでは妻を守れない。また店がぐちゃぐちゃに散らかる。
(くっ、どうすればーー!)
再び蜘蛛へと顔を向ける。
しかし、もうそこには何もいなかった。
武器を探したわずかな間に、蜘蛛は消えていたのだ。
理由はすぐに分かった。
前に立つ少女の手から、持っていた本がなくなっている。本は梟の元へ移り、代わりに少女の手の中にはチリ紙が有った。両手でやんわりと包むチリ紙は、何かが中でモゾモゾ動いている。
「……この前まで暮らしていた町は治安が悪くて、怖いものがたくさんありました」
野良犬、勝手に家に入ってくる酔漢、強盗、麻薬中毒者、誘拐犯。
「兄がみんなやっつけてくれました。でも兄は、虫だけは苦手だったんです。だから虫は私が倒そうと思ったんです。最初は怖かったけど、だんだんと慣れました」
花は、歌丸をまっすぐに見た。
「私、虫は全然平気です!」
「花さんすごい!」
拍手をする朧。妻が少女を見る目は、まるで英雄に捧げる眼差しのようだ。
実際に、薄い紙1枚の装備で自分たちの敵を倒した少女は逞しかった。
やけに眩しかった。
だから、
「……もうちょっと詳しく話聞こうか」
歌丸は思わずそう言ってしまっていた。
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