冷たい風

 翌朝。


 近衛の一族が暮らす母屋と、花が泊まる離れを繋ぐ長い渡り廊下。そのちょうど真ん中くらいで、二郎は錦に会った。


「あら、花さんのお部屋へ行くのですか?」


 二郎が頷く。

 錦は少し困ったように微笑んだ。


「花さんなら勉強を終わらせて、梟さんと町へ出かけましたよ」

「町へ?」

「えぇ。本屋へ行きました。注文していた教科書の中で、取り寄せに時間がかかる物が一冊だけあったらしくて。それが今日入荷したそうなんです。梟さんから何も聞いていませんでしたか?」

「……そういえば昨夜、そんなことを言っていたような気もする」

「ふふ。ちゃんと聞いて差し上げないと、梟さんが悲しみますよ?」


 着物の袖で口元を隠して笑う錦。


「でも二郎さんも疲れているんですね。毎日、狐の山へ行っているのですから。……今日はどうされるのですか?」

「今日は、いなかった」

「いなかった?」

「山へ行ったけど、どこにもいなかった」

「まぁ……。もしかしたら狐の方も疲れて、隠れているのでしょうか?」

「分からない。気まぐれな奴だから」


 少し間を置いてから、錦は口を開いた。


「では、今日は二郎さんも屋敷でお休みになられたらいかがですか? 」

「……あぁ、そうする」

「……。あの」

「?」

「もしよければ、久しぶりにお茶でも、」


 ちょうどそのときだった。

 渡り廊下の窓から、カンカンと音がした。

 見れば、カラスを真っ赤に塗ったような鳥が外にいた。クチバシで忙しなく窓を突いている。


「あれは使い魔……?」

「あぁ、使い魔だ」


 錦は首を傾げて、二郎は窓を開ける。烏はすぐに二郎の手の甲に乗ってきた。


「初めて見る鳥ですわ。誰の使い魔でしょうか?」


 錦が見たことがないのは当然だった。二郎も、この鳥を目にするのは片手で数えるほどしかない。


 鳥は手の甲から、腕を伝って右肩へ移ってくる。

 そうして耳元に口を寄せて、





〝狸ガ、人間ノ娘ヲ、調ベ始メタ〟






 その一言を一度だけ告げて、消えた。


「……二郎さん? どうしましたか?」


 鳥の声は錦には聞こえなかったようだ。そのように設定されていたのだろう。

 これは、兄の一郎が飼っている使い魔だ。

 伝言を承る種だが、ほとんど使われたことがない。兄は基本的に、言いたいことがあれば呼び出してくる。自分の口で直接伝えないと気が済まない人だからだ。



「……少し出かけてくる」

「え? どこにですか? 休まれるのではなかったのですか?


 錦の問いに、二郎は何も答えなった。くるりと踵を返して、廊下を引き返していく。

 錦は察した。

 あの鳥が誰のもので、何を言うためにやって来たのかを。


「……ねぇ、二郎さん」


 錦が呟く。


「錦は、とても幸せ


 ぽつぽつと静かに。


「貴方の婚約者に選ばれたとき、錦は本当に嬉しかったのです」


 だけど貴方は……。


 彼女の言葉は、離れていく二郎には届かない。


 閉められていないままの窓から、冷たい風が吹き込んできた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る