お兄ちゃん(後)

「学校の近くの道で、サイフを拾ったんです。中にはお札が2枚入っていて……、お巡りさんに届けずにそれを使ったんです。お兄ちゃんにはすぐにバレました。怒られました。いっぱい怒られました……。でも私は謝らなかった」


 私は悪くない。私だって取られたもん。

 プレゼント欲しかったのに。楽しみにしていたのに、誰かに奪われた。

 だけど我慢した。泣いたってどうにもならない。家には余分なお金は無いから。


「私はお兄ちゃんにこう言いました。〝このお金はきっと、お母さんが私にプレゼントしてくれたんだ〟って」


 私がワガママを言わないで我慢したから。

 お兄ちゃんを困らせなかったから、ご褒美をくれたんだよ。

 私とお兄ちゃんのために、お母さんが天国から贈ってくれたんだよ


 それを言い終えた時、花は生まれて初めて兄に頬を叩かれた。



「〝こんな時に死んだ母親を出すな〟って、お兄ちゃんは言いました」



 お前は自分の欲に負けたんだよ。母親のせいにして、自分がやったこと正当化するな。


 頬がピリピリして熱かった。

 初めて知る痛みに、花は頭の中がぐちゃぐちゃになった。


〝……お母さんのせいじゃないなら、お兄ちゃんのせいよ〟


 花はカッとなって、感情のままに叫んだ。



〝家がこんなに貧乏じゃなかったら、お兄ちゃんがもっとお金持ちだったら、私だって泥棒なんてしなかったのに!!〟



 それが、兄との最後の会話だった。


 その次の日、兄はいなくなったのだ。



「……何であんなこと言っちゃったんだろう……?」


 どんなに悔やんでも、言葉も兄も戻ってこない。ずっと考えないようにしてきたけど、もうダメだ。


「そりゃ嫌になりますよね。今まで自分を犠牲にして育てた妹が、こんな最低な奴なんだから……!」


 10丁目では貧困が原因で捨てられる子供が多いけど、兄は7歳離れた自分を育ててくれたのに。なのに、あんな手紙を書かせてしまった。


「そのくせ私は、13丁目に来たらお兄ちゃんに会えるんじゃないかって思っていたんです!」


 ここで兄が待っていてくれるのではないか、なんて頭のどこかで考えていた。


(本当に私は最低だね)


 生意気ばかりだった。

 お兄ちゃんがいないと何にも出来ないくせに。

 これからどうすればいいのか全然分からないくせに。

 今まで、お兄ちゃんについていけばよかったから、私は何も考えなくてもよかった。


(怖いよ。お兄ちゃん、怖いの。私はどこに行けばいいの?)


 お兄ちゃんが行けと言った13丁目はとても不思議な町で、知らない世界だった。


 だけど13丁目だけじゃないの。他の町も全然知らないの。私にとってお兄ちゃんがいない場所は、ぜんぶ知らない世界だって気づいたの。



『疲れました。


もうお前の面倒は見たくありません。


お前のために人生を使いたくありません。


俺はお前の兄をやめます。遠い場所で自由に生きていきます』


 認めなければならない。

 あの手紙が、兄の心なのだと。

 自分のせいで、もう兄に会えなくなったのだと。





〝にゃあ〟



 猫の鳴き声がした。


 両手を目から離して見ると、近くに白猫がいた。尻尾の先が2つに分かれた白猫は、舌なめずりをしながら魚群を見つめている。


「……この妖の群れが通り過ぎたら、汽車が来るよ」


 二郎が言った。


「そろそろ群れの最後尾がここを通るだろう。今に汽車の音が聞こてくるはず。その汽車に乗れば貴女は10丁目に戻れるし、他の町にも行ける」

「…………はい」


 二郎は、花を近衛家へ誘うのを諦めてくれたようだ。

 当然の判断だと花は思う。どんなに親切な人でも、泥棒をしたことがある人間を居候させたくはないだろう。


「家に来ないか?」

「……え?」


 花は二郎を見上げた。


「汽車には乗らずに、家においで」

「…………」


 唖然とした。

 信じられない。この人は話を聞いていたのだろうか?


「わ、私は盗みをする人間だから……」

「貴女は自分の行いを後悔しているのだろう?」

「っ、そうですけど……」

「もう2度と貴女は泥棒をしないだろう」

「……何でそんなことが分かるんですか?」

「貴女が、晴殿の妹だから」


 花は二郎を見ていられなくて、白猫の背中に目をやった。


「じ、二郎さまは、お兄ちゃんとは1回しか話したことがないんですよね? 私とも昨日会ったばかりです。それなのにどうして信じられるんですか?」

「貴女は気にならないか?」

「え?」


 質問には答えず、二郎がいきなりそう告げた。


「何故、晴殿は貴女にあの手紙を残したんだろう?」

「…………」


 そこは花も気になっていた。兄はどういうつもりで、友達でも知人でもない貴族の名前を書いて残したのか。


 白猫が、動いた。

 鋭い爪を素早く振り上げる。

 あ、と花が思った瞬間には魚群の下を泳いでいた1匹が捕まってしまった。

 すると二郎は白猫へ近寄り、その腕をやんわりと離してやる。

〝ジュッ〟と焦げる音がした。

 タバコの火と同じ温度を持つらしい妖を、二郎が掴んだからだろう。助けられた妖はヒラヒラと魚群へ戻っていく。

〝にゃ!!〟と、獲物を奪われた白猫が抗議をするように鳴いた。二郎は篭の中の果実を1つ取って白猫に与える。途端に白猫は上機嫌になり、果実を齧り始める。


「僕は知りたいと思うよ。貴女はどう思う?」

「……私は」

「この出会いにどんな意味があるのか。貴女が13丁目にいれば、いつか理由が分かるかもしれない」

(私も、知りたい)


 でも……、と花は躊躇してしまう。


「迷うのなら、単純に考えればいい」


 二郎は花の方へ戻ってきて、前に立った。


「貴女は子供だ。困っているなら、近くにいる大人にそう言えばいい。それだけだ」

「二郎さま……」

「まだ1人で生きなくていい。1人で頑張らなくていいんだよ」

「……どうしてですか?」


 この町に来てから、自分は一体何度、彼にそう問いかけただろう。


「貴方は私にそう言ってくれるんですか? 私にそこまでしてくれるの……?」

「貴女が、はる殿の妹だから」

「……?」

「僕は昔、一度だけ所用があって10丁目に出かけたと言っただろう?」

「はい」

「その時にサイフを落とした」

「え」

「それを拾って、僕へ届けてくれた人がいる」


 花は目を見開いた。


「晴殿だよ」

「おにいちゃんが……?」

「そう、彼だ。僕は嬉しかったよ。サイフが戻ってきたことよりも、晴殿が僕を追いかけて探してくれたことが、とても嬉しかった」


 花の手がまたカタカタと震えた。


「だから僕は信じるよ。晴殿と、貴女を」


 いつの間にか止まっていた涙が溢れ出す。


「ごめんなさいっ……!」


 花は無意識に謝っていた。


 悲しくて、悔しくて、情けなくて、苦しくて。


 二郎の手のひらに火傷が出来ているのが見えて。

 その手が、再び兄と重なって。

 いつも頭を撫でてくれた、あの優しい手を思い出して。


「ごめんなさい! ごめんなさい……!!」


 ここにいない人に向かってひたすら謝った。



 少し遠くから、汽車の音が響いた。











「いないか」


汽車のドアから顔だけを出して、車掌は呟いた。


 13丁目の駅には誰もいなかった。耳がツンとするほど辺りは無音で、本当に生き物がいるのか疑わしくなる。相変わらず気味が悪い場所だ。だから普段はこんな風に覗いたりしないけど、今日の彼は気になることがあった。


 昨日の女の子だ。10丁目から来た14歳の子。この駅で下りたあの子供。


 もしかしたら考え直して、駅に戻って来ているのではと思ったのだが、姿は見えない。


 車内と駅が無人でも、5分間は停車する規則になっている。


 時間になった。


 あの子はやはり現れない。


「……無事だといいんだけど」


 車掌は小さく言って、手動のドアを閉めた。

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